右下の白い屋根の小屋が風信子文庫 |
風信子文庫の右側が、この地で12回目となる自然農での田んぼ |
さいたま市から中平順子(よりこ)さんを迎えてのことだった。中平さんは福岡市の図書館の嘱託職員の司書の方たちの自主的な研修会の紙芝居講座の講師としてよばれていたので、隣の糸島市まで足を伸ばして来ていただいたのだ。中平さんは草花あそびのビデオを10数巻作られている方なので、文庫開きの場は紙芝居はもちろん草花あそびの愉しい場となった。小学生では一人だけ参加したEくんが作った一つ一つの見事な出来栄えに大人たちが驚かされた。
最初の文庫・・・四王寺文庫のこと
風信子文庫は私にとっては2回目の文庫だ。私が初めて文庫を開いたのは1978年の何月だったか、当時私は1976(昭和51)年5月30日に開館した福岡市民図書館に開館後間もない7月から嘱託職員として働いていて福岡市内に住んでいたが、いつか大宰府に住みたいと思っていたところ私に格好の家があると知らせてくれる地元の方があり、【太宰府に出かける度に、いつも立ち寄っていた土産物のお店があり、その店を訪ねる度に、どこかいい住まいはないかとお聞きしていた。久しぶりに出かけたお店で、店の方から「あなたの気に入りそうな所があるよ」と告げられた。調べて見ると売家だった。何とも素晴らしい佇まいのお家と庭であったので、福岡市内に住まわれていた高齢の大家の女性を訪ね、買い手の方が現れるまでの借家をお願いしご了解を得たのだった。】
その借家には離れがあったので、そこで文庫を始めることにした。太宰府町の四王寺山の登り口にあったので、四王寺文庫と名づけた。文庫の本は手持ちの本と友人たちが文庫にとプレゼントしてくれた本だった。近所の電信柱などに「文庫が始めます」と描いたポスターを貼ってのお知らせであったが、文庫開きの日にはポスターを見た何人もの子どもたちがやってきた。
友人から四王寺文庫に |
福岡市民図書館での私の仕事は、人口100万人をこえる大きな市で分館も移動図書館もない状態であったため、市内には160をこえる文庫があり、私は団体貸出用のみどり号に乗って運転手さんと2人で月曜日の休館日を除いた平日の毎日、広い福岡市内の各所に出かけていた。このため、たしか土曜日に半休をとっていたのだったか、その時間に文庫を開いていたように思う。(当時、各区の市民センター内にあった図書室はすべて公民館図書室の位置づけで、7区の市民センター図書室が図書館の分館となったのは、1996(平成8)年の福岡市総合図書館の設置を機にしてからである。)
このようにして始めた文庫であったが、翌年の1979年4月から福岡市が20年以上をかけて行った博多駅地区の区画整理事業が完了したことに伴い、福岡市が設置した財団法人が事業を始めることになり、その中に232㎡の図書室があることから、そこへの転職の話があり急遽、福岡市民図書館を退職することとなった。
博多駅前4丁目にあり、博多駅から歩いて10分ちょとの所にある財団法人博多駅地区土地区画整理記念会館は福岡市から3億5000万円の基本財産の寄付を受け、その利息(当時は金利が高く、年間2000万円をこえる利子収入があった。)と会議室や茶室の使用料収入で人件費を含め、施設を維持管理していくことになっていた。無料の施設としては、1階にある232㎡の図書室と2階に数十畳の畳の部屋があり地域の人たちの利用に供していた。財団の正規職員は私1人で、事務局長は福岡市の職員を課長職で退職した人が数年ごとにかわっていく体制であった。この他、経理に嘱託職員1人(記念会館を退職した1988年の前の最後の数年間は私が公益法人会計の経理も担当した。)そして図書室の臨時職員として司書2人、それに住み込みの管理人の家族の方という体制であった。図書室の図書費は300万円だった。
(私にとって3つ目の図書館の職場となった記念会館図書室には、1979年4月から1988年11月まで8年8ヶ月間勤務した。小さな図書室であったが、たくましいこどもたちや利用者一人ひとりとの関わりが濃厚な、私にとってかけがえのない出会いと学びを授かった場であった。記念会館図書室は組織上、福岡市の図書館の分館ではなかったが、福岡市に分館が1館もなく、全域サービス計画もない中で、私は記念会館図書室を福岡市の図書館の1分館と意識して働いていたように思う。年々歳々、福岡市の図書館の状況が悪くなっていると思われるようになり、1987年に「福岡の図書館を考える会」を思いを同じくする人たちと始め、福岡市の図書館政策『2001年 われらの図書館━すべて福岡市民が図書館を身近なものとするために━』づくりや、月1回の定例会や「図書館の話の出前」などを行った。)
『2001年 われらの図書館』のタイトルは『われらの図書館』(前川恒雄 筑摩書房 1987)に因み 13年後に新しい世紀を迎える時には、「すべての福岡市民が図書館を身近なものとする」ための福岡市の取組みが確実に行われていて、市民のだれもが「図書館をわれらの図書館」と誇りをもって言うことができるようにとの市民の願いをこめたものです。 |
長野ヒデ子さんとの不思議な縁エニシのこと
四王寺文庫は私にとって子どもたちとの出会いの場であったが、子どもたちの幾人かの母親の方たちとの思わぬ出会いも授かっていた。当時はまだ絵本作家としてデビューされる前の長野ヒデ子さんがそのお一人だ。借家に訪ねてこられた長野さんとお話した時、丸木俊さんへの深い思いを語られたことが私の心に刻まれている。その後、長野ヒデ子さんにお会いしたのは27,8年ぶりのことで、滋賀の能登川町立図書館でのことであった。町民の一人が企画した絵本作家、長野ヒデ子さんの講演会の会場でだった。その講演のさなかに、四王寺文庫で、かつて子どもたちと作った折り紙の多面体のものを取り出して話しだされたのにはほんとうに驚いてしまった。30年近くも大事に持っていてくださったものをその日、鎌倉のお住まいからもって来てくださったのだ。講演会に参加した一人ひとりに笑いと深い元気を手渡してくださった。
『とうさん かあさん』長野ヒデ子・さく 葦書房 1980.12.25(初版) 長野さんの絵本作家としてのデビュー作/編集・担当は福元満治氏(現・石風社) |
風信子(ヒアシンス)文庫・・・名前の由来
いつのことだったか、たまたま手にした新潮社のPR誌「波」に加藤周一氏の短いエッセイが載っていて、タイトルが「花 信 」とあり、さらにその文字の下に「はなだより」とひらがなで書かれていた。その文字が私の眼にとびこんできた時、「風信 かぜだより」という文字とことばが瞬時に浮かんでいた。「僕の場合は カゼダヨリ だな」と。
「風立ちぬ いざ生きめやも」、時おり聞こえてくるその声が、その時間近にしていたのかも知れない、風にのって。
携帯電話に関しては、あまり近づかないようにしていた。持たないことで別段不便を感じることはなかったからだ。実際にそれを使い始めたのは図書館を退職する2年前だったろか。それを手にしようとした時に、まず聞かれたのが、「メールアドレス」、メールアドレスって何と聞き返して、改めて考えるまでもなく頭に浮かんだのは、「かぜだより」、アルファベットですね。ならば、kazedayoriですね。こうしてメールアドレスは「kazedayori@・・・」となった次第。
そしてある時、立原道造に関わる本を読んでいて、詩人で建築家でもあった立原道造が
自らの別荘として設計し、彼の生前には建つことのなかった15坪の小さな建物に「ヒアシンスハウス(風信子荘)と名づけていたことを知る。ヒアシンスハウス(風信子荘)の名前を眼にした時に、私の文庫の名前も決まっていた。近くの農業資材をはじめ、なんでも老いてあるナフコにでかけ、ヒアシンスの球根を買い求め、早速「風信子(ヒアシンス)文庫」の入り口に植えたことだった。
才津原様 ご無沙汰しています。このホームページ今、初めて見ました。
返信削除もっと早くに気づけばよかったと、お詫び申し上げます。いろいろ懐かしい景色、鏡山様の畑も思い出し、とてもとても懐かしく胸がいっぱいになりました。コロナもありますが、また、ぜひお目にかかれますよう願っております。風信子文庫素敵ですね!