中村哲さんがアフガニスタンで銃撃にあい負傷されたとの報、すぐに家の中にとびこみテレビをつけると、中村さんが命をおとされたと報じていて、中村さんが乗っていた車の運転をしていた方、また護衛にあたっていた4人、あわせて5人の方も死亡との画面が続いた。そのあと私自身何をしていたのだったか。
どれだけの時間が経ってだっただろうか、程なくだったかもしれない。中村さんとは40年来の親交があった鎌倉の長野ヒデ子さんから電話。全身、悲しみに浸された長野さんの処には、マスコミから中村さんのことで取材が相次いでいるようだった。その取材の中で15年前の2004年、旧能登川町であった、中村さんと井上ひさしさんの対談を核にした、宮澤賢治学会地方セミナーについて触れられたようだ。その時の資料はないかと尋ねられた。なんとか探し出し翌朝、取材された記者に送る。写真は見つからず、当日大阪の島本町から地方セミナーに来られていた乾知恵さん、文子さんにやはり翌朝連絡して送っていただいた。
長野ヒデ子さんからの聞き取りを朝日新聞の山口宏子記者が、
https://webronza.asahi.com /politics/articles2010120600009.html
で配信されている。
(「アフガンに寄り添った中村医師の素顔
憲法九条を胸に井戸を掘り、宮澤賢治を愛した友を悼む 長野ヒデ子/絵本作家 2019年12月7日
相手に寄りそう、人にも自然にも/
「裏切り返さない誠実さが人を動かす」/
井上ひさしさんと出会い、宮澤賢治を語る)
中村哲さんが立ち現れてくるかに思えるレポート。能登川での宮澤賢治学会地方セミナーについても触れられている。
その後、山口記者は、中村さんが宮澤賢治学会のイーハトーブ賞を受賞された際に書かれた「わが内なるゴーシュ」の原稿に心打たれ、中村さんへの思いをさらに深めて、「論座」で、新たに3回の連載を組まれている。
1.アフガンの現場から、医師中村哲さんの言葉①
https://webronza.asahi.com/politics/articles/20191212000007.html
2.軍事力でなく憲法を、中村哲さんの言葉②
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019121600002.html
3.憲法9条が信頼の源、中村哲さんの言葉③
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019121600003.html
山口さんに送付したのは以下のもの。
滋賀報知新聞 2004(平成16)年 4月16日(水)
毎日新聞 2004(平成16)年 4月26日(月)
地方セミナー(チラシ 2種類 各4頁)
プログラムについて
中村哲さんと井上ひさしさんのお話、そしてお二人の対談を核にした地方セミナーのプログラムをどのようなものにするか。
それまで中村哲さんの講演を何度かお聞きして、どの講演会場でも驚かされたのは、中村さんのお話の内容、その語り口はもとよりのことであるが、お話を終えて、会場の人との質疑のやりとりだった。どのような質問にも正面から、懇切ていねいに、そして深いユーモアをもってこたえておられた。きびしい質問に応える言葉には一層,深いユーモアが感じられた。対話に耳傾ける一人一人の心をやわらかに開いているように思われた。
このため、質疑の時間をしっかり取りたいと考えた。こうして、中村さんと井上さんのお話をそれぞれ30分ずつしていただいて、対談に1時間20分、そして会場との質疑に1時間というプログラムとなった。開会の挨拶からいえば4時間に及ぶセミナーとなった。
開会の挨拶とは別に開会の辞を、宮澤賢治学会の会員でもある仙台の扇元久栄さんにお願いした。扇元さんは開会の辞 イーハトーブ童話『注文の多い料理店』序を巻紙にしたためて、会場にふかくひびく声で読んでくださった。ほんとうは、その序は扇元さんの体の中にあり、そらんじておられるものであったが、そのように読んでくださったのだった。
初めて扇元さんにご連絡をしたのは、1987年だったか、当時、博多駅近くの小さな財団法人の図書室で働いていた私は、人口100万人をこえる大きな市で、市立図書館が1館しかない状態の中、年々歳々、福岡市の図書館の状況が悪くなっていると考えるようになっていた。そんな時、写真家の漆原宏さんから、仙台市で”図書館をもっと作る会”の代表をされている扇元さんを紹介された。どうも最初のお電話を深夜にしたようなのだが、扇元さんからは”もっとの会の活動のおびただしい資料が送られてきた。その内容に目をみはった。そのことが”福岡の図書館を考える会”を始める大きな契機となったのだった。それから扇元さんには山口での集会や、ついには福岡市にも来ていただくことになり、以後、扇元さんには深い深い元気を授かりつづけてきていたのだが、その扇元さんが井上ひさしさんと深い関りをもっておられた。能登川での地方セミナーで井上さんと中村さんの対談の実現には、長野ヒデ子さんとともに扇元さんからも大きな力をいただいてのことであった。出会いの不思議さというか、えにしというか、天からの力に助けられての井上さんや中村さんとの出会いであった。
宮澤賢治学会イーハトーブセンター 会報(2004.9.22)
それは琵琶湖の東岸、ほぼその中央部に位置する当時、人口約2万3千人の小さな町、能登川町で同セミナーが開かれた2004年(平成16年)5月1日からさかのぼること11ヵ月前の2003年7月頃のことだった。図書館が開館して7年目の能登川町立図書館のカウンターに一人の女性が来られて私に話しかけられた。以前、彼女が関西地区の大学に通学している頃
時折、大学の授業で能登川の図書館のことを話す先生がいるなどと話されていた方だ。
「宮澤賢治学会というのがあって、自分はその会員だが、その学会では年に1回、各地で地方セミナーを開いているのだが、能登川町で開けないだろうか。
それから程なくしてのことだった。私は京都で、日をおかず2回、中村哲さんの話を聞く機会をえた。1度目は京都市左京区岩倉の論楽社で。2度目は京都ノートルダム女子大学の大きな講堂で。
論楽社は虫賀宗博さんが主宰している私塾(ホームスクール・家庭学校)で、子どもたちの学びの場であるとともに、小さな出版社でもある。(1981年4月~)
論楽社のことは鶴見俊輔さんのご本で知った。鶴見さんが近所に住む虫賀さんたちの論楽社の活動について書かれていたのだ。その文章を目にしてからだったか、私の中に能登川町立図書館の開館1周年の記念講演(1998年)に鶴見さんをという思いが生まれ、まず論楽社を訪ねようと思い立ちお訪ねしたのが最初だった。
鶴見さんについていえば、大学生の時に(1967,8年頃)、その著書に出会い、また鶴見さんの文章で森崎和江さんを知って以来、お二人は、折にふれて私の傍らに在り、私は50年をこえる読者の一人としてお二人のご本を手にしてきた。私にとっては読者であることで充分で、私が働く図書館でお話を聞く場をとは、思ってもみないことだった。ところが、先の鶴見さんの本を読んで、それまで思ってもみない思いが生まれたのだと今にして思う。鶴見さんのお話を能登川の場でお聞きできないだろうか、と。
論楽社では、1987年8月から「講座・言葉を紡ぐ」を開いて、これはと思う人の講演会を、6畳2間の場、「障子や襖をとりはらった座敷、縁側、奥間に座布団をしきつめ、同じ目の高さで、聞き、考え、語りあう」場をひらかれていた。6,70人でいっぱいになる小さな場。第1回は岡部伊都子さん、以後、藤田省三さん、松下竜一さん、徳永進さん、島田等さん、安江良介さん・・・。
そして、「その言葉を、論楽社の責任において、活字にする。熱い、埋火のような言葉を届けたい。」・・・・・(論楽社ブックレット)
(論楽社の活動は 論楽社ほっとニュース blog.rongakusya.com )
能登川町立図書館での記念講演は、虫賀さんたちのご助力をえて実現することができたのだが、最初に訪れて以来、私はしばしば論楽社を訪ねるようになった。
そうして、論楽社の何回目の「講座・言葉を紡ぐ」であったのか、中村哲さんにお会いすることができたのだった。中村さんのお話を聞くことができたのは、偶々ということでも、偶然にということでもなく、この人の話を、同じ目の高さで聞く場をという論楽社のたゆみない歩みの中で授かったものであることを、あらためて思う。
実は中村哲さんとは私は同じ中学で3年間を過ごしている。福岡市内にある私立のミッションスクールであるが、その中学校は1学年3クラスあったが、3年間一度もクラス替えがなかった。中村さんはC組、私はB組だった。このため体育やその他の時間で同じ場にいたことがあったと思われるけれど、残念なことに中学時代の中村さんの記憶は全くない。
論楽社での集いが、私にとっては中村哲さんとの初めての出会いだった。
やわらかな、凛とした空気、気につつまれた一刻一刻
ユーモアを体現した人に はじめて出会う
ユーモアというものを、はじめて体感する
(「ユーモアを・・・」以下二行は、中村さんが亡くなられて、時を経て今、私のなかに浮かびあがったコトバだ。論楽社でハジメテお会いした時は、唯々、静謐な時空のなかで、一言ひとこと、その言葉に打たれていた。)
論楽社での集いの翌日だったか、ノートルダム女子大学での中村さんの講演会の会場は、いったいどれだけの人が参加されていたのか。私には千人を超える人のように思われた。司会は論楽社で出会った蒔田直子さん、2人の娘さんも壇上に。
そうしてたくさんの人で埋まった会場で、中村さんの口から宮澤賢治の名前がとびだした。2日続けて(論楽社で、そしてノートルダム女子大学で)。
「かの地で宮澤賢治を読むと、日本の在りようがよく見える」と。
座席に座り耳傾けていた私は即座に、これは中村さんと井上ひさしさんだなと思った。
それから、幾人もの方たちの、かけがえのないご助力をえて、翌年、2004年5月1日、能登川町で、宮澤賢治学会地方セミナーが開催されたのだった。
辺境で診る 辺境から見る 宮澤賢治学会・地方セミナー 開催にあたって
(チラシより)
2004年5月1日、琵琶湖の東岸、そのほぼ中央に位置する能登川町で、宮澤賢治学会地方セミナーを開催できますことは大きな喜びです。
宮澤賢治が生まれた岩手県は、かつて日本の辺境とも言うべき地でした。賢治さんはその辺境の地にイーハトーボという、いのち響きあう世界を見、「たしかにこの通りある世界」として、私たちの前にさしだしています。この度の地方セミナーのテーマは、
「辺境で診る 辺境から見る」です。これは、実は今回の地方セミナーの講師のお一人である医師、中村哲さんの最新の著書のタイトル名です。中村哲さんは、1984年パキスタン北西辺境州のペシャワールでアフガン難民と接し、以後20年間にわたって、パキスタアフアフガニスタンの地でライ(ハンセン病)に苦しみ、貧困で診察を受けられない人々のために活動を行ってきました。
20年に及ぶ中村さんの活動を支えてきたのは、そん医療活動を支援する目的で結成された福岡市に本部をもつペシャワール会の役12,000人の会員のボランティア活動です。中村さんとペシャワール会の活動は、「東ニ病気ノ子ドモアレバ行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ」の「雨二モマケズ」を彷彿させるものがありますが、中村哲さんは、こうした活動の中で、アフガンの地で賢治の本を読み、昨年、京都で行われた講演会で、かの地で賢治の作品を読むと、日本の今のありようが、その作品を通してよく見えるという趣旨のことを述べられていました。
今回の今一人の講師である井上ひさしさんと宮澤賢治との深いかかわりについては、井上さんのエッセイや、戯曲「イーハトーボの劇列車」などの作品で、多くの人に知られています。
井上さんが小学6年生の時に、「生まれてはじめて、雑誌ではなく単行本を、それも自分自身の判断で、しかも貯めておいた自分の小遣いで買った」のが、井上さんの蔵書1号である「どんぐりと山猫」であったということ。この本との出会いを、井上さんは「私の個人史における生涯十大ニュースのひとつ」と言われていますが、井上さんの生き方とその著作の根底には、いつも賢治の世界と響きあうものがあるように思われます。
また、「国をあてにしない生き方から一歩先へ、モデルのない時代だからこそ、新しいモデルをわたしたちでつくっていく。個人から町へ、地域から国づくり」を考えr「生活者大学校」の開校、その長年にわたる活動は、まさに地域(辺境)で見る、地域(辺境)から見る」活動そのものと見えます。
この度の地方セミナーでは、「辺境で診る、辺境から見る」ことを、その生き方の根っこにおかれているなかむらさんと井上さんをお迎えして、「辺境で診る、辺境から見る」とは何かを、じっくりお聞きし、参加されたお一人ひとりが、「ほんとうの生き方」を、自ら考える場とならばと考えています。地方セミナー開催という天空からの贈り物とも思える時を与えていただいた能登川からは、この機会に出会えた賢治さんとの出会いの喜びの小さな声をお伝えできればと願っています。
さいごになりましたが、能登川町での地方セミナーの開催にあたりましては町の内外の実に多くの方々のご助力をいただきました。心からお礼申し上げるものです。
中村哲・井上ひさし講演・対談
”ほんとうの生き方”をよりよく考える言葉が紬ぎだされる対談 (チラシより)
このたび中村哲さんと井上ひさしの対談を企画いたしましたのは、井上さんが中村さんの活動のはやくからの支援者であり、よき理解者であるからです。井上さんは中村さんの活動に心からの感銘を受け、紹介する話を、すでに井上さんゆかりの地、山形県立置賜農業高校でされています。日本の農業、戦争と平和についても深い関心を持ち、積極的に発言してこられた井上さんと、内戦が続くなかで20年間、闘う平和主義を貫いてこられた中村さんの”賢治”を切り口とした対談が実現すれば、宮澤賢治の世界の広く深い広がりが感得される対談になるとともに日本で今を生きる私たちの生を支える労働について、平和について、又一人ひとりの”ほんとうの生き方”をよりよく考える言葉が紬ぎだされる対談になるものと確信いたします。
天空からの贈りもの
--琵琶湖の畔りのまちでの地方セミナー --2004年5月1日 才津原哲弘
(宮澤賢治学会イーハトーブセンター会報 2004年9月22日)
「能登川で地方セミナーをひらけないでしょうか」、この一言からすべてが始まった。昨年の七月であったか、町立図書館のカウンターで、大学生の頃から図書館をよく利用されていた主婦の三村あぐりさんから相談を受けた。お話では三村さんは、宮澤賢治学会の会員で、同会では毎年、各地で地方セミナーを開催されている由、彼女の言葉の端々から開催への熱い思いが伝わってくる。
それからパキスタンとアフガニスタンで二十年近く医療活動を行っている医師、中村哲さんと作家の井上ひさしさんのお二人の講演と対談を核としたのと小川町での地方セミナーの開催が決定し実現されるまで、実に多くの町の内外の方たちから思いもよらぬご助力をいただくこととなった。(京都、論楽社の虫賀宗弘さん、熊本水上村、お休みどころの上島聖好さん、福岡、石風社の福元満治さん、鎌倉の絵本作家、長野ヒデ子さん、賢治学会の会員で仙台で図書館づくりの市民運動に長く関わられた東京の扇元久栄さん・・・)
五月一日、地方セミナーの会場となった中央公民館の玄関前の受付には、晴れやかな表情で参加者を迎える数多くの女性たちの姿があった。この日の集いを支えてくださる有志のみなさんだった。
この日のために中村さんはぱきすたんから飛行機を乗り継ぎ、昨夜おそく東京経由で滋賀に着かれたばかりであった。アフガニスタンで用水路建設のため自ら重機を操って陣頭指揮をとる中村さんは、現地で足をひどく痛め、長時間、たつことも困難な状態であったが、そのことを知ったのは地方セミナー終了後のことだった。又、井上さんも徹夜あけのしごとを終えて、鎌倉から駆けつけてくださったのだった。
午後一時、いよいよセミナーが始まった。町から田附弘子教育長の歓迎の挨拶、主催者のイーハトーブセンターをだいひょうして、代表理事の萩原昌好さんの静かで心に響く挨拶に続いて、扇元久栄さんによる開会の辞。扇元さんは巻紙に書かれた『注文の多い料理店 序』を読み始める。
「わたくしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでもーー」、
読み進むにつれて、手元に長く伸びていく巻紙の白さが眼に鮮やかだった。凛として心にしみる声が会場に響き、賢治さんの世界の扉が一気に開かれたかのようだった。
とりいしん平さんの賢治短歌四首と井上ひさし作の『なのだソング』の太鼓をたたいての歌、心と体にドンドコドドンと響いてくる。そして有志による『雨にも負けず』の群読が終わると、いよいよ中村さんの講演『医者、井戸を掘る、その後』が始まった。
「貧しいから不幸せではない」「二十年間をふりかえりまして、人助けというつもりはないではなかったが、助かってきたのは自分たちの報なのだ」
中村さん、井上さん、それぞれ三十分ずつの講演の後、対談、会場との質疑というプログラムであったが、スライドをつかっての中村さんのお話は、三十分が過ぎても、会場の人が耳をそばだてる話が続いていく。
『賢治と哲』という演題でバトンを受けた井上さん、「中村さんのお話を三十分で理解するというのは、お経を五分で理解するということで無理なことです。中村さんの話を詳しく聞いたら涙がでます。」「これから私が、中村さんのお話の聞き手となって聞いていきます」「対談という生ぬるいことではなく」「なぜ医者がサンダルづくり、井戸掘りをするのか」「なぜいま、重機を操っているのか」等を。
残念ながら、その後の展開されたお二人の抱腹絶倒、涙と笑い、そしてよりよく生きていくために役立つ、心のしみるお話を書き記す紙数がありません。他日、その手立てを。と考えるものですが最後に二つのご報告。
参加者のだれもが、”静かな元気”をお二人から手渡されて、それぞれの現場にかえったこと。お二人のお話の中に、いつも賢治さん(その生き方)と連なるものがあり、今回の地方セミナーのテーマであった『辺境で診る 辺境から見る』ということが、どんなに豊かな営み、生き方であるかをてらしだす場となったように感じました。
四月七日から五月二日まで図書館で開催した三つの展示(『佐々木隆二・写真展「風の又三郎」』、『加藤昌男・銅版画展「賢治曼荼羅・蔵書票」』他や四つの行事(造形作家、茗荷恭介さんや加藤昌男さんの講演など)ではいずれも驚くばかりの出会いがありましたが、これらもすべて、地方セミナーの開催により実現したものです。
このような天空からの贈りもののような時を授けてくださった、井上ひさし、中村哲さん、イーハトーブセンターの皆さん、そして、これらの集いに参加し、集いを支えてくださったみなさんに、心から感謝するものです。 (滋賀県能登川町立図書館)
さいごに、地方セミナー終了して後日のことですが、中村哲さんが ”イーハトーブ賞”を受賞されました。受賞に寄せての中村さんの文章です。アフガニスタンの用水路建設の現場で書かれたものです。
(ペシャワール会報 No.81 2004年10月13日)
イーハトーブ賞(宮澤賢治学会主催)受賞に寄せて
わが内なるゴーシュ 愚直さが踏みとどまらせた現地
pms(ペシャワール会医療サービス)総院長 中村哲
セロ弾きのゴーシュ
まず授賞式に出席できなかったことを深くお詫び申し上げます。現在アフガニスタンでは未曽有の旱魃がさらに進行し、数百万人が難民化していると言われています。この旱魃で和江きれぬ人々が飢餓に直面していました。実際、多くの人々が私の目前で命を落としました。
しかし、四年前の「アフガン空爆」いご、華々しい「復興支援」の掛け声にもかかわらず、徒に政治情勢や国際支援のもが話題となり、人々の本当の困窮はついに国際世論として伝わらなかったのです。そこで私たちとしては、国民の八割以上がのうみんであるアフガニスタンで、何とか現地の主食である小麦の植え付け前に、多くの土地を潤そうと、一年半前から用水路建設に着工、今この挨拶を現場で書いています。小生が居ないと進まぬことが余りに多く、どうしてもここを離れられません。おそらく「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」というくだりをご記憶の方ならば、理解いただけるかと、非礼をば省みず、書面で受賞の辞をお送りします。
小生が特別にこの賞を光栄に思うのには訳があります。
この土地で「なぜ二十年も働いてきたのか。その原動力は何か」と、しばしば人に尋ねられます。人類愛というのも面映いし、道楽だと呼ぶのは余りに露悪的だし、自分にさしたる信念や宗教的信仰がある訳でもありません。良く分からないのです。でも返答に窮したときに思い出すのは、賢治の「セロ弾きのゴーシュ」の話です。セロの練習という、自分のやりたいことがあるのに、次々と動物たちが現れて邪魔をする。仕方なく相手しているうちに、とうとう演奏会の日になってしまう。てっきり楽長に叱られると思ったら、意外にも賞賛を受ける。
私の過去二十年間も同様でした。決して自らの信念を貫いたのではありません。専門医として腕を磨いたり、好きな昆虫観察や登山を続けたり、日本でやりたいことが沢山ありました。それに、現地に赴く機縁からして、登山や虫などへの興味でした。
天から人への問いかけ
幾年か過ぎ、様々な困難ーー日本では想像できぬ対立、異なる文化や風習、身の危険、時には日本側の無理解に遭遇し、幾度か現地を引き上げることを考えぬでもありませんでした。でも自分なきあと、目前のハンセン病患者や、旱魃にあえぐ人々はどうなるのか、という現実を突きつけられると、どうしてもさることが出来ないのです。無論、なす術が全くなければ別ですが、多少の打つ手が残されておれば、まるで生乾きの雑巾でも絞るように、対処せざるを得ず、月日が流れていきました。自分の強さではなく、気弱さによってこそ、現地事業が拡大継続しているというのが真相であります。
よくよく考えれば、どこに居ても、思い通りに事が運ぶ人生はありません。予期せぬことが多く、「こんな筈ではなかった」と思うことの方が普通です。賢治の描くゴーシュは、欠点や美点、醜さや気高さを併せ持つ普通の人が、いかに与えられた時間を生き抜くか、示唆に富んでいます。遭遇する全ての状況がーー古臭い言い回しをすればーー天から人への問いかけである。それに対する応答の連続が、すなわち私たちの人生そのものである。その中で、これだけは人として最低限守るべきものは何か、伝えてくれるような気がします。それゆえ、ゴーシュの姿が自分と重なって仕方ありません。
私たちは、現地活動を決して流行りの「国際協力」だとは思っていません。地域協力とでも呼ぶほうが近いでしょう。天下国家を論ずるより、目前の状況に人としていかに応ずるかが関心事です。
世には偉業をなした人、才に長けた人はあまたおります。自分のごとき者が賞賛の的になるなら、他にも・・・・・と心底思います。しかし、この思いも「イーハトーブ」の世界を心に刻んだ者なら、「この中で、馬鹿で、まるでなってなくて、頭のつぶれたような奴が一番偉いんだ(「どんぐり と山猫」)という言葉に慰められ、一人の普通の日本人として、素直に受賞を喜ぶものです。
どうもありがとうございました。
※本文は、去る九月二十二日、岩手県花巻市で行われた宮澤賢治学会主催イーハトーブ賞授賞式において、欠席した中村医師に代わり出席した福元広報担当理事によって代読されたものです。
0 件のコメント:
コメントを投稿