2022年4月25日月曜日

豊田の原稿2  No.92ー1

      「図書館の発見」をめぐって             豊田市の図書館の今とこれからを考える 町田市立図書館と比較して 〈インタビュー〉             才津原哲弘  竹内 純子   添付資料  〈Ⅰ〉大分県の図書館振興策について      (p52~) 5頁  〈Ⅱ〉調布市立図書館について         (p58~) 10頁  〈Ⅲ〉『大沢家庭文庫 50年記念誌』栗山規子 2020.12 (p68~) 9頁  〈Ⅳ〉「図書館サービスの望ましい基準と豊田市図書館の比較2017(平成29)年度」p76 〈Ⅴ〉「基本的な指標の確認から」 (資料Ⅳの解説)p77 〈Ⅵ〉「都道府県別設置率・中学校区設置率・貸出密度・登録率」2017(平成29)年度p78  〈Ⅶ〉「伊万里市民図書館の望ましい基準値(目標値)との比較」2016(平成28)年度)p79  〈Ⅷ〉「いとしま としょかんしんぶん」No.1 (1)~(4) (p80~83)4頁     「編集・デザイン」の大松くみ子さんは、「としょかんのたね・二丈」の会の名付け親であり、初代の世話役。 〈Ⅸ〉「糸島市立図書館のこれからについての提言」(1) 2018.6.4 (p84~85)    (2)「糸島市長選・公開質問状に対する回答」及び「添付資料」p86 〈ⅹ〉「岡山県立図書館の取り組み」【添付なし。下記資料1冊が参考資料】 『情報化時代の今、公共図書館の役割とは 岡山県立図書館の挑戦』菱川廣光     大学教育出版 2018:なぜ岡山県立図書館が、全国の都道府県立図書館で、入館者、貸出冊数がトップになっているか、その苦闘の経緯、基本とする考え方が克明に書かれている。滋賀県立図書館の実践に深く学び、県立図書館のあり方を鮮やかに指し示している。「基本を大切にする図書館」240~243p参照。 なぜインタビューになったか 竹内 豊田市の図書館を考える市民の会では、2018(平成30)年6月10日に豊田市中央図書館で、才津原さんに九州、福岡県の糸島市から来ていただき講演会を開催しました。市民の会の予定では、その講演録と才津原さんより先に、会で講演していただいたアーサー・ビナードさんの講演録とをあわせて1冊の冊子をつくる考えで、それにとりかかりましたが、才津原さんの講演の録音状態が悪く、テープ起こしができませんでした。このため才津原さんには、事情をお伝えして、新たに文章で何枚かの原稿を書いていただけないかお願いしたのです。 才津原 そうですね。最初はたしか原稿5、6枚ということでお引き受けをし、書き始めた  のですが、いざ書き始めると、これはとても5、6枚ではおさまらず、長い原稿になると思われました。何を書くかを考えて、今、豊田市の図書館が直面していると、私に思われる問題に焦点をあてて書こうと考えました。それは私が住んでいる地域の図書館のもっとも大きな課題と同じ問題でもありました。 竹内 具体的に言うと、どういうことですか。 才津原 詳しくはあとでお話ししたいと思っていますが。 豊田市は面積が918㎢、名古屋市の約3倍、愛知県内で最も広く、東京23区(627.6㎢)や京都市(827.8㎢)よりも広い広大な都市ですが、図書館は中央図書館1館しかありません。子ども図書室、コミュニティセンター図書室3,交流館28,合計32のサービスポイントがありますが、組織上これらは図書館の分館ではありません。分館でないため、専任の職員は配置されておらず、どのサービスポイントでも、予約や調べごとの相談ができ、同じサービスが受けられるシステムとしての図書館がありません。 豊田市の図書館の問題は、市民だれでもの身近に図書館がないこと、市民の身近に図書館 がない図書館砂漠ともいえる状態の中で、図書館を日常的に利用できない多くの市民がいること、移動図書館や分館網がまったく整備されていないため、どの地域でも、図書館としての同じサービスを受けられない状態であること、そして、何よりの問題は、市民の身近に図書館をつくっていくための市の計画的な取り組みがなされていないことではないかと思います。 また、豊田市の図書館が直面している問題―市民の身近に図書館がないというのは、私が住んでいる糸島市の問題でもありますが、全国の図書館の状況をみると、それは全国各地の図書館が抱えているもっとも切実な問題であり、根が深い問題であることに思い至り、それが一体どういう問題であるかを、この際、市民の会のみなさんと、ともに考えてみたいと思ったのです。その結果、当初お聞きしていた分量の10倍をこえる長い原稿となってしまい、ご迷惑をおかけした次第です。その後、色んな経緯がありましたが、新たな原稿に替えてインタビューでやりましょうということになったのですね。 原稿を読んだ感想をおくる 竹内 その原稿を市民の会の有志で読みましたが、その内容のあらましはどのようなものか、話していただけますか。 才津原 そのお話の前にまず、豊田市の図書館を考える市民の会のみなさんがその長い原稿を読むため、なんと2日間にわたって集まられ、さらにそれに参加されたお一人お一人が、読み終えての感想のお手紙をあわせて送ってくださいました。そのことにほんとうに驚きました。原稿を書いた私への感謝の思いを、一人一人がそれぞれの言葉で伝えることで示そう、そのようにみんなで話あってのことと書かれていました。私の拙い原稿をこのように読んでくださり、お一人お一人からお便りをいただきましたこと、ほんとうに感動しました。まずそのお礼を申しあげさせていただきます。 原稿のあらましは 竹内 それでは、そのあらましを。 才津原 かなり長い原稿ですので、ここではいくつかの点にしぼってお話したいと思います。全体は8章からなっています。 第1章が「図書館は何をするところだろう」〈図書館の発見〉、これには、私自身の「図書館の発見」についても触れています。 2章が『本の予約』って何だろう、3章が「図書館が図書館として機能するために欠かせないこと」、4章が「望ましい基準のこと」 そして5章が本論である「“望ましい基準”から豊田市をみると」 そして6章「地域に図書館があるということ」(1、苅田町立図書館の活動から)、7章「苅田町立図書館・・・後日談、町長が変わって起きたこと」、 そして8章「さいごに(現状を知ることから)」となっています。 これに添付資料10点を加えています。ここでは主に1章と5章についてお話できればと思います。 タイトルは、そこにこめられた思いは 竹内 その前に、そのことに関わると思いますが、全体のタイトルは? 才津原 よく聞いていただきました。タイトルは『図書館の発見― 図書館は何をするところか。“地域に図書館がある”とは、どういうことか ― 豊田市立図書館の今と、これからを考える(町田市立図書館との比較)』という、これもまた長いものになってしまいました。 竹内 長いタイトルには、どんな思いが? 才津原 私が普段利用している図書館や各地の図書館のことを考える時に、まず思い知らされるのは、自治体によって、そこで行われている図書館サービスの内容や、サービスの態勢、それを支える司書を核にした職員体制(専門、正規の図書館長の不在)に、とても大きな格差があるということです。自治体間の格差がきわめて甚だしいということです。都道府県ごとに、あるいは一つの県内の各図書館をみても、それが、同じ図書館という看板を掲げているのに疑問を覚えるほどです。 なぜ、このような格差があるのか、その格差が正されないままであるのは何故だろうと、私は考え続けてきましたが、私はその主な理由は「図書館は何をするところか」についての「図書館の発見」がいまだ行政の中で、また市民一人ひとりの中でしっかりと行われていないからではないかと考えています。「図書館は何をするところか」がだれもの自明のことになっていないのではと思っています。 竹内 それで“図書館の発見”というタイトルになったのですね。 2冊の本、『図書館の発見』の「まえがき」を読むことから、そして前川さんのこと 才津原 そうですね。先ほど、根の深い問題だと言ったことに関わりますが、このため本文では、「図書館は何をするところか」「図書館はだれのためのものか」をあらためて考えるため、日本の公立図書館の歩み、特に戦後、1950年の「無料利用の原則」や「図書館の働き・図書館サービスの内容」を初めて明記した「図書館法」の公布、施行以降の歩みを振り返ることから始めています。そしてそのことを考える資料として、まず2冊の本の「まえがき」を読むことから始めたいと考えたのです。 竹内 『図書館の発見』というタイトルの本が2冊あって、それぞれの「まえがき」から読み始めるいうことですね。  才津原 そうですね。こんどの原稿のタイトルの「図書館の発見」は1965年に、東京の三多摩の日野市で、1台の移動図書館から図書館を始め、翌年2台目の移動図書館を運行するとともに、順次5つの分館をつくり、1973年に中央図書館、さらに1977年に6館目の分館である市政図書室をつくった日野市立図書館の初代館長の前川恒雄さんが、石井敦さんとの共著で出版された本のタイトルでもあります。 最初の本が日野市立図書館の開館8年後の1973(昭和48)年に、そしてそれから33年後の2006(平成18)年の2回にわたって出版されています。最初にでたのが『図書館の発見 市民の新しい権利』で、ついで日野市立図書館開館後41年目に書かれた本のタイトルは『新版 図書館の発見』となっています。なぜ、『図書館の発見』というタイトルとしたかは、旧版の「まえがき」に明確に述べられています。ぜひ、一読していただければと思います。新版は石井敦さんの健康上の理由から、旧版『図書館の発見』をもとに、石井敦さんと打ち合わせをかさね、前川恒雄さんが執筆しています。 石井さん、前川さんのこと 才津原 少し長くなりますが、お2人を紹介するため、新版の奥付を読んでみます。 「石井敦 1925年、神奈川県生まれ。神奈川県立神奈川図書館、東洋大学社会学部教授を経て、東洋大学名誉教授。主な著書『日本近代公共図書館史の研究』(日本図書館協会) 以下略。 前川恒雄 1930年、石川県生まれ。日野市立図書館長、滋賀県立図書館長、甲南大学文学部教授。主な著書『われらの図書館』(筑摩書房),『移動図書館ひまわり号』(筑摩書房;絶版:夏葉社・復刊)『前川恒雄著作集』(出版ニュース社)など』 以上が奥付によるものです。 前川さんの自伝について 才津原 ここで、前川さんの私たちへの最後の書ともいえる本について、少しお話したいのです。私にとっては、このように遅くってなってしまったインタビューですが、「見るべきものを見て」から、インタビューに臨みなさい、とのどこからかの声のようにも思えるのです。 前川さんの最新刊は、夏葉社から昨年、2020年12月に出版された『未来の図書館のために』です。この本の内容、そしてこれがどのように生まれたかは、前川さんの「一図書館人の思い出」の「あとがき」、そして末尾の前川さんの長女、前川文さんの「あとがき」から知ることができます。まず、前川さんの「あとがき」から。 「この著作は、藤澤和男氏が、私が思い出を語るのを録音してくれ、それを藤澤氏、石嶋日出男氏、田代守氏の三人がテープおこしをして文章に直してくれ、私が多少手を加えたものである。私の最後の著作を形にしてくれた三氏には感謝に堪えず、言うべき言葉もない。」 そして文さんの「あとがき」 「90歳近くなっても、同じ話を何度も言うことなどなかった父が、(略)嬉しそうに繰り返し」文さんに話された言葉。 「お父さんが自伝のようなものを書いたら、三人の友だちが、自分たちが出版する、と言ってくれてるんだ」 驚いたのは、文さんの三人への深い感謝の思いを伝える言葉に続く文章です。 「この自伝は一般書籍として本屋に並ぶ類いのものではなく、三人が自腹でお金を出し合って出版し、父の願いを叶えようとしてくれているのだと知ったのは、もっと後のことだった。」 それで、わかったのです。この本の出版を私に最初に教えてくれたのは竹内さんでしたね。 私はいつも利用している糸島市の二丈館でリクエストをし、購入は夏葉社の本を注文できる市内の小さな小さなブックカフェ「ノドカフェ」でしようと思っていたのです。前川さんの本だから、注文すればいつでも手に入ると考え、自宅でやっている「風信子(ヒアシンス)文庫」から、2か月ごとに「ノドカフェ」に本の出前をする時に注文をしようと考えていたのですが、注文するのが遅くなってしまったのです。そして注文してからのご返事に仰天したのです。夏葉社の島田潤一郎さんの話では、品切れで増刷の予定はないとのことでした。それから慌てて探しはじめたのです。県内の大きな書店や、これはと思う書店にもなく、ネットでも見つからず、ようやく滋賀県彦根市の「半月舎」という、1度だけお訪ねしたことがある小さな素敵な本屋さんで見つけることができたわけです。思いついて、全国の図書館の所蔵状況を調べてみると、所蔵していない図書館が多いのに驚きした。 (2021.3.21現在、県立図書館を含む。福岡県13/54館中、佐賀5 /18,長崎1/20、熊本3/26、大分4/17、宮崎2/20、鹿児島0/31、沖縄0 /26 ;愛知13/49 :福岡・愛知県立は未所蔵。 豊田市立は所蔵:カーリル―ローカルによる) こんど、新しく出版された自伝を読んで改めて思ったことは、前川さんの足跡をたどることは、戦後の日本の図書館の歴史をふりかえることで、読者がそれぞれの歴史的ともいえる現場に自分の身をおいて、歴史的な時空をともにすることでもあると思いました。そしてそれは現在、私たちが直面している問題がどういうことであり、それに対してどのように対するか、市民の誰もが利用できる図書館のあり方を考えている私たちにとって、実に大きな深い示唆やヒントを手にすることにつながることだと思いました。それで、ここでは、前川さんの歩みを、竹内さんをはじめ、豊田のみなさんとたどってみるということを強く意識しながら、私の原稿の内容の一端をお話できればと思っています。そのことが、「図書館の発見」とはどういうことかにつながるのではと思ったのです。 もし前川さんの本をまだ読んでいない方がおられましたら、多くの著書の中からまず『移動図書館ひまわり号』をお勧めしたいと思います。この本は1988年に筑摩書房から出版されていましたが絶版になり、2016年に、1冊1冊心をこめて出版している夏葉社から復刊されています。以後のお話では、そのことを体感させられるエピソードをできるだけ紹介しながらお話したいと思っています。 前川さんと石井さんとの出会い 才津原 『未来の図書館ために』では、「日野市立図書館がめざしたもの」など、前川さんの生涯にわたる図書館のお仕事や自治体をこえての活動の核心が語られていますが、これまでの著作では知ることが出来なかったことが率直に語られていて、まさに前川さんが、読者一人ひとりに手渡す最後の言葉と自覚されていることが伝わってきます。 2冊の『図書館の発見』の共著者である石井敦さんとの出会いについては、1951年に、文部省の図書館職員養成所に入学した前川さんは、次のように述べています。 「養成所では、一学年上の石井敦さんが学生のリーダーで、あらゆる面でめざましい活躍 をしていた。石井さんは私に特に目をかけてくれ、相談したり一緒に行動したりした。石井さんとはその後五十年、亡くなるまで、兄弟の仲でともに歩むことができたことは、ただ感謝するばかりである。」 図書館の活動の歴史を振り返るとき、このような偶然のような人と人との出会いがその後、とても大きな意味というか、大きな力になっていることを知らされますが、まさにそのような出会いであったのではと思われます。 滋賀県でも画期的な仕事 竹内 前川さんは日野市だけではなく、滋賀県でも仕事をされているのですね。 才津原 そうですね。前川さんの生涯の足跡をたどるとき、滋賀県での実践を通して、図書館の活動をさらに底広いものにした取り組みに目をみはります。 前川さんは日野市で1974年から助役をしたあと、1980年、当時の武村正義滋賀県知事に強く幾度も要請されて、滋賀県立図書館長として1980年から1991年3月の定年まで務めました。また「武村知事の後任の稲葉稔知事は、就任早々から」前川さんを信頼し、知事の全庁への訓示で、「県立図書館の活動をほめ、全庁でこのように働くようにと訓示した」こともありました。 「日野市立図書館長として、有山(日野)市長とともに、日本における図書館革命の先頭に立」ち(『図書館運動五十年―私立図書館に拠ってー』浪江虔 日本図書館協会 1981 )、「図書館は何をするところか」を市民に明らかにする道を切り開いた前川さんは、滋賀県立図書館長としての10年間で、県立図書館の改革に力をつくし、こんどは「県立図書館は何をするところか」を鮮やかに指し示す活動を行うとともに、1980年当時、滋賀県は50の自治体のうち市や町の図書館は6館だけという、全国で最低位の図書館の状況から、滋賀県の公立図書館の利用度が全国でもっとも高い地域となる道を開いたのです。 竹内 『未来の図書館のために』は幸い、豊田市の図書館は所蔵しているようですので、私も読んでみたいと思います。 当初の原稿の話にもどりますが、その原稿では2冊の『図書館の発見』の前書きを読むことから始めたといわれましたが、『図書館の発見』の新版、旧版の「まえがき」について、さらにここで話されたいことがありますか。 「きわめて特異な経過をたどってきた日本の図書館」の歴史 才津原 そうですね。新版の「まえがき」のなかに、「きわめて特異な経過をたどってここまできた日本の図書館」という言葉を、現在の日本の図書館間でサービスに驚くばかりの大きな格差があることに深く関わるキーワードだと私は考えています。 竹内 「特異な経過」とは、どういうことですか。 才津原 一言でいえば、図書館の無料利用の原則がなかった戦前はもとより、1950年の図書館法制定以降の日本の公立図書館がたどってきた特異な経過、歩みのことです。その特異さとは、図書館法制定以降この70年間にわたって、図書館の整備、振興について国は積極的にすすめてこなかったということです。反対の方向に力を注いだと思われるほど、驚くばかりに、一貫してと思えるほど、国は図書館に力をいれてこなかった。前向きどころか、後向きの状態が50年、70年をこえて延々と続いている、そのことを「特異な経過をたどってきた」と、私は受けとめています。 竹内 具体的にはどういうことですか 国の施策の問題点、3つ。  2つ目「補助金廃止の問題」から 才津原 たくさんあるのですが、ここではこれまでの国の対応、施策の問題点について3点をあげたいと思います。1つ目は「望ましい基準」の問題、2つ目が国の補助金廃止の問題、そして3つ目が「指定管理者制度」導入の問題です。話す順序としては、「望ましい基準」については少し長くなると思いますので、2つ目の補助金廃止の問題からお話したいと思います。また「指定管理者」の問題は、豊田市の図書館の課題のところでお話しさせていただこうと思います。 竹内 国の補助金の廃止というのは、どういうことですか。 才津原 国の補助金の廃止の問題についてですね。 1950年の図書館法により、館長が司書資格をもつことなどを条件に国が建設費の補助金を交付することが規定されました。図書館も公民館も同じ「社会教育整備補助金」というものですが、国が戦後作らせた公民館への補助金と図書館のそれを比較すると、その割合は「10対1、ひどいときには20対1と大きく開いている」(『未来の図書館のために』)状態でした。これは2018年度の公立公民館数14171館に対し、図書館数が3226館で、公民館が図書館の4.4倍の館数になっている実態と見合っていると考えられます。国の社会教育行政の力点がどこに置かれてきたかを示すものであると思います。(1960年:公民館2万201館、図書館数629館〈市区立425,町184、村20〉『日本の図書館 1961』) 図書館にはそうした規定はありませんが、公民館はより住民の身近に配置するという規定があり、それがすでに62年前に実施されてきたことによるものだと思われます。(「公民館の設置及び運営に関する基準」1959.12.28文部省告示98号) 2020(令和2)年度の全国の公立小学校数は1万9217校、公立中学校数は9291校です。図書館は全国の小学校区の17%、中学校区の35%であるのに対して、公民館は全国の小学校区の74%、中学校区の135%に設置されていることになります。詳しくはあとで触れますが、私は住民のだれもが図書館を利用できるためには、住民の身近に、住民の生活圏に図書館が必要であると考えています。具体的には中学校区に1館の図書館、「中学校区設置率100%」が「身近に」を保障する要件だと考えています。(追記:インタビューの後半に至り、公民館のあり方から示唆をうけ、町村については再考する必要があると考えています。) 補助金制度はあったものの 才津原 お話したように、補助金の施策はできたのですが、「図書館への補助金の額は微々たるもの」でした。例えば私が図書館開設準備室長として関わり、1990年に開館した 福岡県の苅田町立図書館(人口3万3千人、1982㎡)の場合、建設費は7億7920万円で、国庫補助は7200万円で、建設費の9%が国の補助でした。また、やはり準備室から関わり、1997年に開館した滋賀県の能登川町立図書館(人口2万3千人、図書館・博物館4051㎡、うち博物館986㎡)は建設工事費17億6800万円でした。町の一般会計が70億台できびしい財政の町でしたから、建設費の90%を自主財源で行うことは難しく、国の補助金より町の負担がはるかに少ない「地方総合債」という起債で行いました。 このように、国の補助金がきわめて低かったため、「社会教育整備補助金」以外の財源で図書館の建設をする自治体が増えたこともあって、「館長の司書資格の規定は空文化し、守らない図書館が圧倒的に多くなり、1998年に補助金は公民館と共に完全に廃止され、1999年には図書館法の規定も削除」されてしまいました。(前掲書より) 1999(平成11)年7月8日に成立した「地方分権の推進を図る為の関係法律の整備等に関する法律」によって、図書館法も改正され、「国の補助金を受ける場合には図書館長は司書 有資格者である」こととした図書館法第19条が削除されたわけです。これは、補助金を受ける場合でも、図書館長に司書有資格者をすえるかどうかは、各自治体の裁量によるべきものとしたのです。国が意図する「地方分権の推進」がどんなものであるかを示すものだと思います。菅原峻さんの言葉がよみがえってきます。 「図書館長は、図書館サービスの最高責任者であって、単に施設や人事の管理者ではありません。図書館サービスの方向を示し、職員群の先頭にたって指導し、市民へのサービスを全とうする責任を負っています。図書館法では、第13条の2で「館長は、館務を掌理し、 所属職員を監督して、図書館奉仕の機能の達成に努めなければならない」と規定しています。「図書館奉仕の機能の達成に努め」るためには、図書館学を修得し、経験を積み、かつこのまちの文化を発展させることができる人材が望まれます。」 忘れることができないこと・・・補助金廃止の理由 才津原 忘れることができないのは国が図書館の建設費の補助をやめるとした理由です。 図書館や公民館の補助金は正式には「公立社会教育整備補助金」といいましたが、図書館 の補助をやめるのは、「図書館整備率が50%をこえ、全国総合開発計画にいうナショナルミニマムに達し、その存在価値が低下したから」だというのです。 問題はそこでいう50%の中身です。設置率が50%をこえたとしても、まだ自治体の半分が図書館がない状態で補助金をうちきるというのです。しかも、1999年度の全国の市区(東京23区)町村立図書館の設置率は50%になってますが、その内訳をみると、市区立が97%(694市区中675;未設置は34市)ですが、町村は37%の設置率で2558町村のうち951の町村しか図書館を設置しておらず、1607の町村では図書館そのものがない状態でした。さらに町、村で見ると、町の設置率は1990町のうち図書館があるのは859町で43.2%、村はさらにきびしく568村のうち92村の設置で16.2%でした。町の設置率が43%、村の設置率はわずか16%であるのに、市区を加えた全体では50%の設置になったから、シビルミニマムに達したというのです。 〔石牟礼道子さんの水俣病被害者救済特別措置法(2010)についての言葉を想起。 「50 %に達したので、打ち切り」に重ねて読みました。忘れて、すませないように。  池澤 屁理屈の典型ですけど。  石牟礼 はい。何と道義のない、姿勢のない、徳性もない、国民に対して一かけらの情愛のない政府。外国に対しても恥ずかしくないのかと思う。 池澤 ほんとうにそう。                (2012年5月20日)   【『みっちんの声』石牟礼道子 池澤夏樹 河出書房新社 2021.2 / p.145】 ] 私が住んでいる所は、当時人口1万3千人の二丈町で、全国に図書館がない町村1607町村の中の一つの町でした。この地域に図書館が開館したのは、2010年1月に前原市、二丈町、志摩町の1市2町が合併して糸島市となった翌年の2011年10月、旧・二丈町役場、志摩町役場の一画を改装して、二丈館、志摩館が開館してからことです。1950年に図書館法が制定されてから実に61年後、世代で言えば2世代後のことです。 (合併前の前原市:移動図書館開館1998年12月、前原市図書館開館2005年11月) 市も町も村も地方自治体として平等であるものですが、国は町村を市と平等なものと考えていないのではと思わざるをえません。国には過疎地特例債など、財政がきびしい地方自治体への施策を講じていますが、ナショナルミニマムというのであれば、図書館が未設置の自治体や、分館が未整備の自治体に対する施策を立案して実施することは、国の責務であり、喫緊の課題だと思います。図書館は学校と同じで、地域の人を支え、育て、地域を引き継ぐ次世代の子どもたちを育み育てる地域の基本施設で、市町村のすべて、どんな地域にも必要な、欠くことのできない施設であるからです。財政がきびしいからと言って、学校のない自治体は日本全国どこにもありません。 竹内 うーん、驚いてしまいますね。 また国の補助金の廃止と、補助の条件である館長の規定の削除が関連しているとは知りませんでした。 「館長の規定」、その「削除」が意味すること 才津原 そうですね。先ほど言いましたように、図書館建設費補助金は微々たるものものでした。先に述べましたが、私が準備室から関わって1990年5月に開館した福岡県の苅田町立図書館(人口3万3千人、1832㎡)の場合は、建設費7億9000万円、国庫補助7200万円で、建設費の1割弱でした。建設費の補助金だけでなく、職員や施設等の他の交付条件もきわめて低いものでしたが、館長が司書の資格を持っていることが、補助金の交付条件であったことは大切な意味をもっていました。それは図書館が一定水準のサービスをするには、有資格で経験のある館長が必須であり、必要であることを意味していたからです。前川さんは、その規定の削除を、図書館法の大切な理念を揺るがすものだと指摘しています。国の図書館政策の大きな後退で、その後の館長の配置に大きな影響をもたらしています。 竹内 自治体によっては館長が司書の資格をもたなくてよいとするところがでてきたわけですね。 才津原 そういうような動きを実際にもたらしてしまったわけです。苅田町では、図書館の設置条例のなかに、館長が有資格であることを規定していましたが、開館当時の町長が退職してからのことですが、その要の条文を削除してしまいました。一方、苅田町で条例をつくるときにもっとも参考にした東京都の東村山市立図書館のように、図書館協議会や市民の力で、その規定を守り維持しいている図書館もあります。 それでは問題ある国の対応、施策の三つめの指定管理者制度の問題については、豊田市の図書館の課題ということで後で語り、一つ目の「望ましい基準」の問題にかえりたいと思います。 「望ましい基準」って何だろう 竹内 「望ましい基準」ですね。 才津原 図書館法の第7条の2に「設置及び運営上の望ましい基準」というのがあります。読んでみますね。 「文部科学大臣は、図書館の健全な発達を図るために、図書館の設置及び運営上望ましい基準を定め、これを公表するものとする。」という条文です。 今から20年前の文章ですが、当時、大阪府立中之島図書館の司書だった前田章夫さんは、 「公立図書館の基準と補助金」という論文のはじめで次のように書いています。(『図書館法と現代の図書館』塩見昇・山口源次郎編著 日本図書館協会 2001.2) 「図書館法の中で、これほど図書館関係者に期待をかけられ、またその期待に背いてきた条文はないだろう。本体ともいうべき「基準」が法制定後五〇年を経過した現在もなお、文部科学大臣告示という形では公示されておらず、いわば「空文」状態に置かれてきた。しかし、それでもなお図書館関係者には希望を抱かせる条文である。」 図書館法の制定にあたった、当時文部省の社会教育課長の西崎恵氏が述べているのですが、図書館は地方公共団体、つまり自治体が条例に基づいて設置するもので、地方公共団体の義務でないばかりか、設置に際しての認可制度も廃されている。従って、図書館奉仕、図書館サービスすね。図書館サービスの機能を達成するために、ぜひとも要求される基本的諸条件がみたされない惧れが多分にある。このため、全国一律に参照しうる基準を設けて その惧れを取り除こうとしたものだと。 繰り返していいますと、図書館をつくるか、つくらないかは自治体の判断、考えによるので、義務設置ではないから、つくらないからと言って法律違反ではない。しかし、どのような図書館をつくるかを各自治体の判断のままにまかせていたら、全国でそれぞれ図書館という看板をかかげながら、てんでんばらばらのサービス、自治体間の非常に大きなサービスの格差が生まれるだろう。そうならないために、いやそうさせないために、人口規模に応じて、全国の自治体が図書館の設置、運営にあたって参考になる基準、「望ましい基準」をつくって公示することにしたわけです。どの地域の、どの図書館でも一定水準以上の図書館サービスを行っていく上で、とても大事な考え方であり、条文であったと思います。 「望ましい基準」の公示が行われたのは  ふたたび「基準」って何だろう 竹内 その公示はいつ行われたのですか。 才津原 驚かないでくださいね。いや、驚くべきということでしょうか。実に1950年の図書館法制定から51年後の2001年7月のことです。その後2012年12月に全面改正されて公示されています。 竹内 わー、51年間も基準なしできたのですか。 才津原 そうですね。51 年間もですね。ただ実際にはこの間に「望ましい基準」をつくるためのいくつかの動きはあったのです。 国が図書館づくりに後向きだったことを示す実例のこと 竹内 どのような動きですか。 才津原 「望ましい基準」の作成については、日野市立図書館が1台の移動図書館で開館した2年後の1967年7月、はじめて社会教育審議会の小委員会の報告があって、文部大臣に答申されましたが、それは都道府県教育委員会の社会教育課長に送られましたが、なぜか告示されないままでした。その5年後、あらためて基準作成がはじまり、図書館専門委員会で審議し、1972年9月に施設文科会長に報告されました。ところがその案は文部省の係官によって書きかえられ、翌年社会教育審議会にかけられ承認されましたが、これまた公示されませんでした。このため、「公立図書館の望ましい基準案」は、1972年専門委案と1973年施設文科会案の2案があります。しかし、分科会案は、担当した前川さんの経過報告によると、1972年9月の委員会報告に対し、「分部省でほとんど全面的に書きかえられたため、ねばって最大限の訂正をしたが、基本体制とサービス網が欠落したことは、どうも仕方がなかった」ということです。(『図書館雑誌』67巻10号、1973年10月号)) 一体、文部省が切り落とし削除した基本体制とサービス網とは何か。ここで、読んでみたいと思います。「市町村立図書館」の項に関するものも併せて紹介します。意味のある、内実を備えた「基準」とはどんなものかをよく示す「基準」であると思われるからです。 公立図書館の望ましい基準案・・・(専門委員会案) 委員会案は、基本的態勢、市町村立図書館、都道府県立図書館の三つに分けて基準を定めている。 基本的態勢 (1) すべての国民が、市町村の設置する“図書館の直接的サービス圏におかれるべき”こと (2) “都道府県ごとに、わが国における主要な出版物のすべて、およびその他住民の多種多様な必要を充たしうる資料”の利用を可能ならしめること (3) 図書館相互および公民館・博物館等との協力連携 (4) 図書館の専門職員の重要性、その待遇に対する配慮 (5) 資料を“責任をもって選択すべきこと、適切な整理、配置、利用方法をとること 市町村立図書館に関しては、 (1) 市町村は、本館・分館・移動図書館からなるサービス網によっておおわれなければならない (2) 貸出が市町村立図書館の最も基本的な業務であり、住民の役立つためのサービスの 水準は、 年間貸出冊数 人口の2倍  (1960年の貸出密度 人口当たり0.25冊)   貸出登録人員 人口の15%  (1960年の登録率 2.33%) (3) 貸出冊数の半数またはそれ以上が児童図書であることが望ましい (4) 最低必要な年間増加冊数 市立図書館 人口千人あたり125冊以上(注:人口の8分の1以上)   町村立図書館  2,000冊以上 (5) 専門職員の数は、市立図書館 人口7,500人につき1人            町村立図書館 5人以上    非専門職員の数は、専門職員の数の2分の1程度 など   (『日本図書館学講座Ⅳ  公共図書館』森耕一 雄山閣)    文部省が「望ましい基準」から削除したのは、「すべての国民が、図書館の直接的サービス 圏におかれるべきこと」「市町村は、本館・分館・移動図書館からなるサービス網によっておおわれなければならない」でした。いずれも、「総論」、「市町村立図書館」の一番目におかれ、委員会として最も重視した規定であったと思います。 「住民の生活圏内に、身近に図書館を」の否定を文部省が自ら行ったということであったと思います。 国の考え方、姿勢をあらためて確認する 才津原 それから26年後の1988(昭和63)、文部省社会教育審議会社会教育施設分科会で、『新しい時代(生涯学習・高度情報化社会の時代)に向けての公共図書館の在り方について』という「中間報告」をだしていますが、「市町村における図書館整備が大きな課題である。」 「住民に対するサービスの向上のためには、既存のサービスの体制の充実と未整備地域におけるサービス体制の強化が必要である。特に、未整備地域におけるサービス体制の強化に当たっては、まず当該市町村が自助努力をすることが前提となる。」〈東京都の図書館政策のように、全体のサービス水準をあげるような誘導的な基準とするという観点はみられない〉「国及び地方公共団体は、・・・公共図書館の整備を計画的に進めていく必要がある。」 その際、特に重点的な施策として、「第一は、図書館整備地域の拡大である。図書館サービスの拡大に当たっては、第一に大切なことが図書館の適正配置である。まず、図書館が整備されていない市町村への設置を促進する必要がある。整備市町村においては、核となる図書館の充実を図るとともに、住民の利用を考慮した分館等の設置を進めていく。」 この「中間報告」によっても、なんら具体的な成果もないまま、このような国の考え方、姿勢がその後、かわることなく2001年の「望ましい基準」の初めての公示まで、延々と続いていくわけです。 「図書館の適正な配置」とは何か、その具体的な内容を明らかにせず、また国の誘導的で、有効性のある政策の必要性についてはなんら論議も提案もない報告であると思いますが、そのような国の姿勢、立ち位置を正しく把握しておくことが大切だと思います。 公民館の配置基準はどうなっているか  市でも農村地帯は小学校区に 才津原 ただ文部省、現在の文部科学省が、社会教育施設の適正な配置ということについて、これまでなんら施策を講じなかったわけではありません。 すでに1964(昭和34)年、日野市立図書館の開館1年前のことですが、「公民館の設置及び運営に関する基準」を告示して、「公民館を設置する市町村は、・・・当該市町村の通学区域(略)人口(など)を勘案して、(略)対象となる区域を定めるものとする。」 と定め、翌年の1965年、各都道府県教育委員会あての通達で、 「公民館の事業の主たる対象となる区域については、一般的にいえば、市にあっては中学校の通学区域、町村にあっては小学校の通学区域を考慮することが実態に即すると思われる。しかし市にあっても農村地帯などについては、小学校の通学区域とし、市街地などについては人口密度、ないし利用者数に応じて中学校の通学区域より狭い区域とするなど他の諸条件をも勘案し、実状に即して定めることが望ましい。なお、いままでの公民館活動の実績によれば、公民館を中心として、16平方キロメートル以内の場合に利用上の効果が最も高くなっている。」としています。 「図書館の適正配置」を考える際、豊田市でも糸島市でも、市の中に広い農村地帯がありますが、その際、中学校区ではなく、小学校区になければ、日常的な利用が困難な地域があることが実感される地域に住む市民にとっては、住民の「身近に」分館の必要性を訴えるときに、「小学校区に」と求める重要な根拠の一つと考えていいのではと思います。 あらためて、基準ってなんだろう 竹内 市でも地域の状況によっては小学校区に必要だという規定ですね。 才津原 そうですね。それでもう一度、基準って何だろうと考えてみたいのですが、図書館だけでなく、私たち市民の生活を守り支える上で、社会的なそれぞれの場で、基準をつくり、その基準をさらに高めていくことは、ほんとうに大切なことですね。最近の例では小学校の児童数を2021年度から5年かけて1クラス、現在の40人から35人になるように法律の改正をしましたが、この時の法案の名前が、かなり長いものですが、「公立教育諸学校の学級編成及び教職員定数の標準に関する法律の一部を改正する法律案」でした。「標準」なんですね。「標準」とは「基準」のことですね。新聞によっては「義務教育標準法改正」と報じたところもありましたが、この「標準」の改正により、今後5年間で1万3574人の教職員が配置されることになっています。 竹内 まさに私が働いている現場で、ほんとうに大きな変革ですが、これにより全国どこでも、1クラス35人学級になるわけですね。 才津原 そうですね。全国どこでも同じにですね。しかし、図書館の「望ましい基準」については51年間も基準なしにきたわけです。1世代30年といいますから、51年というのは非常に長い、2世代に近い期間、おじいさん、おばあさんの時から基準がないということです。少年、少女だった人がおじいさん、おばあさんになったときに基準がつくられた。このため、図書館法の制定に当たった文部省の西崎氏が危惧した通り、全国で図書館間で、非常に大きな格差が生まれて今日に至っているわけです。 全国の図書館のうち本物の図書館は5% 才津原 初めて「望ましい基準」が公示された2001年の前の年、2000年に菅原峻(たかし)さんが、全国の図書館のあり様をみて、「本物の図書館」といえるのは、全体の5%しかないと述べています。(日本の図書館は3つのタイプに分けられる。①図書館という看板の下がった役所;全体の半分以上、②無料の貸本屋;残りの70~80%、③本物の図書館;全体の5%、しかも当初③であっても、①②化していくケースが珍しくない。「図書館にはDNAが大事なのです。」『アミューズ』2000.1.26) これまで、何度も図書館間のサービスに実に大きな格差がある、これが同じ図書館という名前を名乗ることこができるのだろうかと言ってきましたが、その格差の甚だしさが一体どれほどのものかを端的に示す言葉だと思います。全国の図書館の95%、ほとんどが「本物の図書館」とはいえない、というのですから。 竹内 菅原さんはどんな方ですか。 才津原 菅原峻(たかし)さんは1926年北海道の生まれで、戦後は北海道八雲町の公民館の仕事、日常的には図書室の仕事をしていましたが、図書館の勉強をしようと1951(昭和26)年に文部省の図書館職員養成所に入り、卒業後、日本図書館協会に入り、昼間は調査部(全国の図書館の調査)の仕事をしながら、夜は法政大学に通っています。ここで1951年という年が、今から思うと日本の戦後の図書館の歴史を振り返るとき、特別な年であったように思います。先に前川恒雄さんが石井敦さんと養成所で出会い、「その後五十年、亡くなるまで、兄弟以上の仲でともに歩」まれたことを話しましたが、(『未来の図書館のために』)菅原さんは1951年、図書館職員養成所(文部省)の学科試験を受けた場所で、1科目が終り休憩で廊下にでた所で、偶然に前川さんに出会うのです。以来、「養成所のニ年間、前川君とは一番親しい仲でした。(略)彼は苦学力行、なにせ酒屋でアルバイトをしたから文字通りの力行ですよ」と、後年インタビューの中で語っています。(「境界人、菅原峻の途中総括 助言者という選択」〈「ずぼん」⑥ポット出版 1999:以後の内容も〉 このように、1951年図書館職員養成所で前川さんは、菅原峻、石井敦、そしてさらに砂川雄一氏に出会うのです。この年の養成所の同期生の中にいた砂川氏は、前川さんが1974年に日野市で課長職だったときに助役に任命されたとき、後任の図書館長を託した人です。養成所以来の友人で、その人柄を信頼してのことでした。砂川氏は日野市立図書館の館長になって、移動図書館の運転もされたとのことですが、ここでも天の配剤とも思える人の出会いの不思議さを思います。 菅原峻さんのこと 才津原 菅原さんのことをもう少しお話したいと思います。 菅原さん、前川さんたちは1953年に文部省図書館職員養成所を卒業し、同年4月に菅原さ んは社団法人日本図書館協会に勤務。25年間協会に勤務して、1978年3月図書館計画施設研究所を創設、日本で最初の「図書館コンサルタント」として活躍し、全国の100館をこえる図書館の基本計画の作成やすぐれた図書館建築の誕生に力をつくしました。また、年4回「としょかん」を発行するとともに、日本各地の図書館づくりにかかわり、全国の図書館づくりの得がたい相談役として活動を続けました。先に菅原さんの「本物の図書館は全体で5%しかない」という発言を紹介しましたが、これまでの菅原さんの経歴から伺われるように菅原さんは、全国の図書館を調査する最前線の現場で仕事をし、全国の図書館の状況を知るとともに、だれよりもたくさんの現場を歩いて図書館の計画づくりや設計に関り、どんなにしっかりした図書館の基本計画をつくっても、計画通りに図書館を始めることが如何に難しいかを体感した人の発言であることに留意したいと思います。 私自身のことですが、もし菅原さんのお仕事と菅原さんとの出会いがなければ、苅田町の図書館はまったく違ったものになっていたと思います。1987年ごろ、「福岡の図書館を考える会」を梅田順子さんたちと始めて定例会をしていた時、私が偶々手にした埼玉県の『鶴ヶ島町図書館基本計画』(コピー)は、私が図書館の基本計画というものを初めて見て、計画書の重要さを知らされたもので、苅田町の図書館の基本構想をつくるときに、おおいに参考にしたものですが、そのときはその計画書の作成に菅原さんが関わっていたことは知りませんでした。また、1988年12月1日から苅田町の図書館準備室で働き始める以前、私は設計事務所についてまったく知るところがありませんでした。その時、図書館建築の経験があり、図書館の建築に強く深い思いをもついくつかの設計事務所を町に紹介してくださったのが菅原さんでした。こうして、当時、山手総合計画研究所の寺田芳朗氏と出会うわけです。苅田で仕事を初めてほどなく、第1回目の寺田さんの設計案が届き、すぐに横浜の事務所を訪ねたのは12月9日のことだったように思います。その日に山手の事務所で打ち合わせをし、寺田さんが設計した大磯町立図書館を見学し、(夜、外国人船員が来るバーに案内され、そこで聞いた寺田さんのお話が心に刻まれています。)翌日、大和市と藤沢市、そして11日には、開館準備中の埼玉県朝霞市の準備室を訪ねて、大澤正雄さんにお会いして、大きな収穫を授かっています。苅田に帰ってすぐの13日には、寺田さんが模型をもって来町され、まだうち合わせが十分でない中での、すばやい動きに戸惑いを覚えたものでした。今から思うとよくわかるのですが、苅田町を巡る状況の中で、苅田町の図書館の開館予定の時期が、次の町長選挙の日時から逆算されてのことだと思いますが、寺田さんに与えられていた時間は、図書館開設準備室が設置されてから、翌年の3月末までの、わずか4か月しかなかったのです。基本設計をつくるということが、どんなにすさまじい作業、仕事であるか、そのことを私は深く知ることなく、寺田さんに対したのだと思います。よく知っていれば、4ヶ月で基本設計をお願いするということはできなかったと思います。今にして思えば、寺田さんだからこそ、あの信じがたい短期間で、考えに考え、力をつくして基本設計をなされたのだと思います。寺田さんは、私たちに、思考停止することなく、自ら自分で考えることを求めて、彼のいう「設計競技(協議)は格闘技だ」という時間を手渡してくれたのです。苅田町の図書館が開館して、「空間が持つ力」というものを、私ははじめて体感したように思います。私にとって、建築家との生まれて初めて出会いであったと思います。 苅田町立図書館の設計をされた後、寺田さんは寺田大塚小林計画同人を始めて代表をされ、数多くのすぐれた図書館を設計しています。苅田町以後、伊万里市や沖縄県名護市、滋賀県愛知川町(現・愛荘町)、そして今は合併して諫早市となった、私の大好きな長崎県多良見町の図書館や千葉県君津市、埼玉県小川町、そして福島県南相馬市の図書館などですね。 竹内 どれもぜひ見学してみたい図書館ですね。 才津原 私も南相馬市をはじめ、まだ訪ねたことがない、そして訪ねたいと思っている図書館が何館もあるのですが、ぜひ見学されるといいですね。いずれも建築はもちろんですが、図書館の運営の面でもとても深い学びを得る図書館だと思います。 菅原さんの話にかえりますが、菅原さんとは、福岡の図書館を考える会で講演をお願いしたりしていましたが、菅原さんと苅田町とは、正式な契約的なことはなかったのですが、菅原さんは、苅田町での設計協議の最後の場に参加されたばかりでなく、1990年5月の苅田町立図書館開館後も、九州に来られた時は折々、苅田町に立ち寄られ、当時の沖勝治町長、増田浩次図書館長と親交を深めて、苅田町の図書館に深い力を送り続けてくださいました。『としょかん』(No.33 1990.7.15)の紙上では、次のように町長の言葉の紹介をしてくださっています。 「福岡県苅田町(人口3万3千人)に、新しく図書館が誕生し5月11日開館しました。 計画に助言し設計者を推薦した関係で開館式に招かれ、町民の喜びに接することができました。苅田町は芳しくない事件でしばしば新聞に登場したのですが、新しい町長さんが、図書館を作って町の名誉を挽回したいとおっしゃっていました。そして、図書館を利用して「ものごとを考えること町民になってほしい」と言われたのが心に残っています。」建築は面積2千平方弱です。明るく楽しい雰囲気で、本を囲んでさまざまな読書席や閲覧席があり、建築としても注目されるでしょう。いずれ紙上でもご紹介したいものです。 〔実際に翌年の『としょかん』(No.36 1991.5.15)で、「苅田町(福岡県)の図書館を訪ねて」〈諫早市びぶりおの会〉と題して、5頁にわたり紹介〕 《前川さんが日本図書館協会にきた経緯》 竹内 前川さんはどんな経緯で日本図書館協会にはいったのですか。 才津原 そうですね、今からそのことをお話したいと思っていました。これから話すそのお話に、「前川さんが・・・経緯」を小見出しにして強調したのは、先の菅原さんへのインタビューで、聞き手が「前川さんが協会に来ていなかったら、図書館の歴史は大きく変わっていたでしょうね」と菅原さんに言っているからです。前川さんが協会の職員になったのは日本の図書館の歴史を変えることになる出来事であったと言っているんですね。 前川さんが協会に入ったのは菅原さんの推薦によるものでした。菅原さんが日本図書館協会で仕事を始めて7年後、協会で事務局の柱となる仕事を担っていた武田さんという職員が突然退職し、協会の総務から調査、編集・出版の仕事がすべて菅原さんの肩にかかるようになり、菅原さん一人ではやれない状況になったとき、どうしようかと考えて頭に浮かんだのが前川さんでした。事務局長の有山崧(たかし)さんに相談したら、「君がいいなら」と。その後、有山さんは金沢に出かけていって前川さんに会い、前川さんが協会にくることになったのです。前川さんが、「としょかん」(No.65. 1998.8.15 )によせた文章の一節を読んでみます。 「1960年に、私は七尾市立図書館から日本図書館協会事務局に移った。これは菅原峻さんの誘いがあってのことだが、私は東京での生活に自信がなく迷っていた。その時に、事務局長の有山さんが石川県まで来てくれ、「今の協会には君が必要なんだ」と言ってくれた。こんなことを言ってくれる人に従わないようでは、男ではないという気持ちで東京へ出た。」 29歳の前川さんと、当時日本図書館協会の事務局長、(その後、日野市立図書館が開館して 4か月後の1965年8月に、53歳で日野市の市長になった)48歳の有山崧さん(1911.11 .18~1969.3.16 / 任期半ばの57歳で逝去)との出会いは個人の出会いにとどまらない、その後の日本の図書館の歴史に新たな時代を刻む端緒となったのです。 「基準」は民間で作られてきた・・・「中小レポート」 竹内 人と人との出会いが新しい時代をつくりだしていく、ほんとうに出会いから始まっているのですね。 才津原 そしてその出会いの場所が日本図書館協会であったということですね。その後の協会の歩みをみると、前川さん、菅原さんのお2人が言われていることですが、日本図書館協会は、ある時まで、日本における図書館づくり運動の運動体であったということですね。ずーっと遅れてきた私にとっては、初めて耳にする衝撃的な言葉でした。私は日本図書館協会から刊行される本の多くに、深い力を手渡されてきましたが、私自身は『図書館雑誌』を毎月購入する一会員としての関りだけで、協会を運動体と明確に意識することなく過ごしてきていたからです。 前川さんは「運動」ということについて、それを「ある見識を持った方たちが、ある方針をだす。そしてその方針を基にして図書館をなんとか動かしていく。そしてそれを社会全体に認めさせる。そういう意味の運動ですね。そういう意味の、ものごとが動いていくというような意味の運動論を持った主体があったのですが、今それはなくなったと私は思っています。そのことが現在の困った状況を作っていると思います。」と、2000年5月、京都でおこなわれた講演会で述べています。(「この時、何をすべきか『市民の図書館』三〇年たって」) 有山崧さんと「基準」づくり 有山さんは1949(昭和24)年から日本図書館協会の事務局長として働いていましたが、あまりにも貧しく、利用も極端に少ない日本の図書館の現状を変革するため、「中小公共図書館の運営基準」の作成にとりかかることを考えていました。1960年、有山さんは協会に入ったばかりの前川さんに機関紙「図書館雑誌」の編集、図書館調査(『日本の図書館』の編集)の仕事とともに、協会内に設置する運営基準作成のための委員会の立ち上げと委員会の事務を担当するよう命じます。委員会の正式な名前は「中小公共図書館運営基準委員会」です。基準を検討する委員会ですね。 委員会は1960(昭和30)年から3カ年(実質的には2年半)の月日をかけ、有山さんが選んだ7人の中央委員(委員長清水正三氏42歳の他6名の委員はいずれも30代の気鋭の論客) と、49人の地方委員(実地調査員委員)が、北海道から九州までの代表的な中小図書館12館の詳細な調査と59館の軽い調査、そして3人の外国事情調査委員がアメリカ、イギリスその他の外国事情の研究を積み上げて報告書をまとめています。こうして1963年に刊行された報告書の名称は『中小都市における公共図書館の運営』、通称『中小レポート』(または『清水レポート』)と呼ばれています。ここでいう中小都市とは、人口5万から20万が想定されています。(5大市を除く市町村立図書館) 特に初年度の実地調査は、資料によって優れていると思われる館を選び、12館のうち最初の岡谷市立図書館には委員全員で行き、その時に行った徹底的な調査方法が以後のレールをしいたと言われています。その後の11館の調査は中央委員1人と地方委員数人、それに前川さんが行って、2泊3日の間ほとんど徹夜の報告と議論をし、地方委員には優れた研修の機会になったと思う、と全部の調査に参加した前川さんは述べています。 竹内 前川さんは全部の調査に参加しているのですね。 才津原 そうですね。その調査の徹底ぶりは「かまどの灰まで調べる」と評されるほどのものでした。調査を終えて、中央委員が分担して執筆した原稿を委員長の清水正三さん(京橋図書館長)と前川さんが、内容の調整、表現の統一を図り、相当おおはばな修正加筆をしてできあがった報告書であるということです。 竹内 中小レポートというのですね。どんな内容ですか。 才津原 報告書の本論の前の「はしがき」の中に「この報告書の使い方・報告書の目的」という説明の中で次のように書かれています。 「この運営基準は、「基準」という語から連想される、単に数量的な基準ではなく、具体的な図書館運営の指針として、中小公共図書館で使われるものと考えられている。この報告書は基準の案として作成されたものである」 これは「基準」について考える時に、大事な点だと思います。「単に数量的な基準ではなく」というのは、「数量的な基準を含みつつ」、あわせて、「具体的な図書館運営の指針」となるものを「基準」だとしている点です。「指針」とは「方針」のことであり、「方針」とは「進んで行く方向、目ざす方向、進むべき路」のことですね。この「基準」は「図書館運営の目ざすべき方向」を指し示したある「考え方」の提示、提案であるということです。 図書館の運営の指針と数量的な基準について 竹内 『中小レポート』についてもう少し聞かせてください 才津原 『中小レポート』は、その後の日本の公共図書館に計り知れない影響を与えたといわれていますが、『中小レポート』の提案、主張の大きな柱と数量的な基準について、4つをあげてみます。 まず、「考え方」の提示 (1) 公共図書館の基本的、本質的機能は資料の提供である。   図書館法では、図書館で行うサービスを8項目にわたって詳細に例示していますが、これらの各サービスを貫く最も本質的なサービスは資料の提供であるとしたのです。 (2)「中小公共図書館こそ公共図書館のすべてである」 「都道府県立、国立の図書館は、中小図書館をバックアップする機能をもっている」 (3) 報告書の構成は、「奉仕(サービス)」から始まっていて、図書館の業務はすべて 市民へのサービスのためにあり、図書館の理論はカウンターから生まれ、発展するものであること。「市民一人一人がその実際的利用を通して、身体でその有用性を 把握してもらうべく努力しなければならない」、説教や宣伝より実際のサービスこそ 出発点である。 そして、4番目が数量的基準の提示です。 (4) 以上のサービスを実行するための条件として、年間購入冊数がもっとも重要な要件であるとして、人口5万人の市で、最低5,750冊の年間購入が必要であると算定し、当時の書籍の価格を乗じて約263万円が最低の図書費であるとしました(人口の8分の1)。「この額はあまりに高すぎる」と、この金額を算出し、討議した委員自身が驚いた金額でした。図書の耐用年数を増やし単価をおさえて計算しても、結果はそれほど変わらない。 「多少手直ししてもたいして変わらないということは、これしかない、これが正しいということでしょうね」「だとすると、いまの図書館は最低以下の図書費しかもっていないということになるのかな」こうして「この額は最低額である」と繰り返し強調しています。「そのうえで、住民に失望感を与えるあまりにも小さい図書館は、むしろつくるべきではないと言い切った」。しかし、それだけの年間増加冊数をもつ図書館は都道府県立・大都市立を含めて、45館しかありませんでした。当時、県立 図書館の年間購入費の平均は200万円でした。 (『移動図書館ひまわり号』、『新版図書館の発見』) 竹内 その後の経過というか展開はどうだったのですか   『中小レポート』の主張をうらづけたものは 才津原 そうですね。図書館協会では、『中小レポート』の発刊後、全国数か所でこの報告書をテキストにした研究会がもたれましたが、この報告書は多くの図書館員に励ましと希望を与える一方で「絵にかいた餅だ」という強い批判もだされました。『移動図書館ひまわり号』はその状況を次のように書いています。 「理論の正しさは一応認められても、現実とかけ離れた水準の数値が、ぜひとも必要なものとして納得されるのは相当にむつかしいことだった。しかし、この数値は公共図書館のなすべき方向に基づいて作られたものだから、それが納得されないことには、逆に基本的な方向まで疑われかねない状況であった。ここで、誰かが『中小レポート』の正しさを実際に証明しなければならなかった」 そして、『中小レポート』の考えかた、その思想を取り入れて、『中小レポート』の主張、理論の正しさを、目に見える形で示したのが1965年、1台の移動図書館から図書館を始めた日野市立図書館の実践でした。日野市では、最初に移動図書館1台だけの図書館として出発し、翌年、「動かない図書館がほしい」という児童の声に応えて都電の廃車を利用した小さな分館をつくり、それから順次分館をつくって、8年後には、移動図書館2台、分館6館、本館というシステムとしての図書館をつくっていきましたが、それをつくりだした力は、市民の利用であったと思います。 また、移動図書館1台でスタートしたとき、図書館の設置条例の中に、「日野市立図書館は、中央図書館および分館によって構成される」という条文をいれていたことも、図書館が動いていく方向をしっかり見定めて、サービス全体を成長させるという考えのもとに、スタートしたことがうかがわれると思います。 竹内 いよいよ日野市立図書館のスタートですが開館してからの当初からの市民の利用はどんなものでしたか。 才津原 ここでも『移動図書館ひまわり号』を読んでみますね。 「移動図書館1台の日野市立図書館は、巡回するたびに利用が増え、みるみる予想をはるかに超えた貸出しとなりました。2年目の最初の分館、都電の廃車を使った電車図書館の1年間の貸出しは約8万冊で、これは当時、大都市の中央館なみの数字でした。」 竹内 それから『市民の図書館』の出版につながっていくのですね。 『市民の図書館』の刊行 才津原 日野市立図書館の実践をふまえて1970年、日本図書館協会から刊行されたのが『市民の図書館』です。協会では日野のような図書館を少しでも増やそうと、協会内に「公共図書館振興プロジェクト」を組織して、中小図書館のための具体的な業務の指針をつくることにとりかかります。原案は、児童サービスの項は清水正三氏、残りを前川さんが、日野市立図書館の実践と理論をベースにまとめ上げたものを、図書館員であった8人の委員が徹底的な討論をし、一部書き換えて『市民の図書館』として発刊したものです。このことから、『市民の図書館』は児童サービスの項をのぞき、実質的には前川さんの著作といえるものでした。 この本はその後の図書館の発展に決定的な役割を果たした、といわれています。それは、公共図書館の役割から具体的な業務まで、一貫した考えで貫かれていて、「いま、何をすべきかの重点を示した、一種の作戦の書」でした。その中身は、現在の図書館がいかに貧しいか。特にこの時代は図書費の少なさがあらゆる困難の原因であることを説き、サービスができるための条件をどうすれば獲得できるかを書き、目標を掲げ自信をもって進むよう励ましています。そして、全力を挙げるべき重点を3つあげています。 (1) 市民の求める本を、自由に気軽に貸出すこと。 (2) 児童の読書要求に応え、徹底的にサービスすること。 (3) すべての人が図書館サービスをうけられるように、全域にサービス網をはりめぐらすこと。 そして、基準がでてきます。 「このようなサービスを実行するための基準として、人口の2倍の年間貸出冊数、人口の8分の1の年間購入冊数が掲げられ、」これは、利用が伸びるための最低の臨界点と考えた数値であるとされました。なお、『市民の図書館』の増補版が1976(昭和51)年に刊行され、「付 その後の発展、ほか」の章が加えられていますが、これは菅原峻氏が書いたものです。 澤田正春さんのひとこと 才津原 『市民の図書館』で私にとって忘れられないのは、前川恒雄さんが滋賀県立図書館長をやめられた時、後任に北海道の置戸町の図書館長や教育長をしていた澤田正春氏を指名されましたが、その澤田さんから、県立図書館の館長室でお聞きした言葉です。1991年に澤田さんが滋賀にきて県立図書館長として県内の図書館づくりにも尽力され、1998年に退任される直前のことだったと思います。澤田さんは、とてもお忙しい日々を過ごされていたので、館長室を訪ねたのは澤田さんの在任中、数回だけでした。 滋賀県の図書館は、1980年に前川さんが滋賀県立図書館長として招へいされた時、県内の図書館は50の自治体のうち6館しかなく、全国で最低位の状態でした。前川さんは県立図書館の改革とともに、滋賀県内の図書館づくりに力をつくしましたが、その際もっとも大事なことと考えたのが館長の確保でした。前川さんは県内の自治体の長や教育長や教育委員会などに図書館の重要性と設置を強く呼びかけていましたが、図書館がなかった自治体で図書館づくりの動きが始まった時、まず行ったのが、図書館開設準備の責任者で図書館開館後は館長となる人を、その自治体に紹介することでした。北海道を含め他府県から多くの司書が滋賀にきて準備室長、そして図書館長として、職員の確保と図書館の充実に力をつくしましたが、その状況を「滋賀の人さらい」と言われたことがありました。滋賀県内には図書館そのものが50自治体中4館しかない時代が長く続き、そのサービスの内容もとても貧しい状態にあったため、県内で館長候補となる人を見つけることは難しかったからです。このため県外の各地で図書館づくりに力をつくしていた司書を滋賀に呼び寄せたからです。改めて考えてみると、澤田さんの招へいはその極み、その象徴であったといえるかもしれません。澤田さんは広大な面積の置戸町で日野を抜いて全国一、貸出しの多い実績を何度も実現したばかりでなく、町づくりに関わる図書館の新たな深い可能性を全国の図書館員と図書館のことを考える市民(住民)に知らしめた人です。そしてこのような人選をし、それを実現させることができるのは前川さんの他にいなかった。 その澤田さんが退任間際に話されたのは、「『市民の図書館』を毎年、年の初めに読んでいるんだ」ということでした。私が驚いたのは、『市民の図書館』は『中小レポート』と同じく、その対象を人口5万以上の自治体を想定して書かれていますが、澤田さんは人口5千人の小さな町の置戸町でも、『市民の図書館』の方法でと考えて実践した人であったからです。 『市民の図書館』は貸出しと児童サービスと全域サービスの3つにまず重点をおいた図書館の運営を呼びかけましたが、この本の刊行後50年が経っても、全域サービス、「どこでも」「「だれでも」は未だしの状態で、現在のもっとも大きな課題であると思います。そこへの道はまだ遥か先にある中で、『市民の図書館』は今もなお、大きな力を秘めて、読者である私たちの前にあると、澤田さんが語ってくださったように思っています。 「基準」が大きな効果を発揮した実例 才津原 これまでお話したように、国は図書館の振興について積極的な施策をとることがありませんでした。そうした中で日本図書館協会が果たした実例の一端を『中小レポート』や『市民の図書館』の刊行をめぐってお話してきましたが、「基準」について考えるときには、「基準」というものが、実際に力を発揮した時にもつ「基準」の役割、その力の大きさを知ることも大事な点ではないかと思います。 竹内 そういう観点から「基準」をみることは大切ですね 才津原 その具体的な例は、国ではなく、自治体、つまり都道府県や市町村の政策でみることができます。ここでは東京都と滋賀県、そして東京の調布市の例でお話したいと思います。 東京都の図書館政策  杉捷夫(としお)さんの大きな働き 竹内 東京都のものはどんな内容ですか。 才津原 まず、東京都の図書館政策についてお話してみます。 1967(昭和42)年、美濃部亮吉氏が東京都知事になり、1969(昭和44)年1月、フランス文学の杉捷夫(としお)氏が東京都立日比谷図書館長に専任しました。そして杉氏が日比谷図書館長に就任したのを契機に、知事と都内の区市立図書館長との懇談会が開かれ、美濃部知事は「図書館は票にならないが、やらねばならない仕事だから」と発言し、その結果、図書館振興プロジェクトチームが発足しました。これは都庁の主要部局の幹部を網羅したもので、市立と区立の館長が1人ずつ加わり、市立からは前川さん、区立からは清水正三氏が委員となります。前川、清水の2人とも、『中小レポート』の作成の中心になってきた人です。自治体の長である知事が現場の声をしっかり聞くことができたときに、どんなに大事な政策が生まれ大きな成果を生みだすか。また、ここでも、清水、前川氏を選ぶことができる人がそこにいたこと、そのことをあらためて思います。(1980年、滋賀県立図書館長となった前川さんは県知事と滋賀県内の図書館長との毎年1回の懇談の場を実現しています。1985年から始まり、昨年はコロナ禍で中止になりましたが、武村正義知事のあと、稲葉稔、國松善次、嘉田由紀子、そして現在の三日月大造知事に至るまで行われています。このような事例は、他府県では行われていないと思います。) 竹内 杉捷夫という人の名前がでましたけど。難しい字ですが、敏捷の捷で「とし」と読むのですね 才津原 そうです。「杉としお」さんですね。 杉捷夫という人が果たしたことについては 『移動図書館ひまわり号』で詳細に語られてていますが、都立図書館長がどんな人で、何をするかで事態が大きく変わる実例をそこに見ることができます。 都立図書館長になった杉氏は挨拶にと日野市立図書館を訪れ、都立図書館長の初めての来館とその人柄で前川さんを感激させています。その後前川さんと出会ったときに「三多摩の館長の皆さんとお会いする機会をつくってください。出かけますから」と言って、数週間後には三多摩の館長会議に参加して、図書館が直面している問題や日比谷図書館の体質を改善してほしいという声に真剣に耳を傾け、「どこまでできるかわからないが、できるだけ努力しましょう」と誠実に答えてくださったと前川さんは記しています。 その後、杉館長は1年半もねばって、かつて日野の図書館の発足を準備した社会教育特別委員をつとめ、理論家として知られていて、当時私立大学の事務長をしていた森博氏を都立図書館の整理課長に迎えています。都庁が管理職を民間から採用することは、きわめて稀であった時のことです。杉館長のもとで日比谷図書館は少しずつ変わっていって、市町村立図書館に本を貸すようになります。 竹内 都立図書館、豊田市でいえば、愛知県立図書館が県内の市町村の図書館に本を貸していなかったということですね。 才津原 そうですね、それまで都立図書館は市町村の図書館に本を貸していなかったのです。都立図書館にしかない本を読みたい時は、都立図書館に行かなければならなかったのです。これは全国のほとんどの府県立図書館がそうだったということです。 また、前川さんは杉館長から、「図書館振興政策のためのプロジェクトチームをつくることになった」と聞かされた時、「前川さんもチームのメンバーになってくださるでしょうね」と言われ、前川、清水の2人が参加するプロジェクトチームの発足に至ったわけです。 竹内 プロジェクトチームでも、お2人の力は大きかったようですね。 政策を立案する委員会――委員の構成、だれが委員になるかがポイント 才津原 そうですね。このチームには、都庁内の教育、企画、財政、人事、区市町村担当の部課長、それに都立、区立、市町村立図書館の代表が加わり、都立からは日比谷図書館庶務課長の佐藤正孝、区立代表が清水正三、市町村立代表が前川恒雄となったのですね。委員会の会議を重ねる中で、「思いきった政策を積極的に立案しようということになり、原案を作成するための小委員会を作ります。」メンバーは、教育庁企画の永井、企画調整局の山西、そして、日比谷図書館の佐藤、京橋図書館の清水、それに日野市立図書館の前川の5名でした。 竹内 お話を聞いていると、小委員会の立ち上げが重要なことだったようですね。 才津原 そうですね。決定的なことだったと思います。なぜいま、52年前に設置された都庁内の委員会について、少し詳しくお話しているかというと、これまで国や自治体でおびただしい数の委員会や審議会などが作られてきていますが、その原案をつくるのが、委員ではなく、行政側の事務局の職員だったり、委員が書いたとしても、行政側の意向の中でしか書かない事例が決して少なくないと思われる現状が、今に続いてあるからです。事務局まかせには決してせず委員が責任をもって自ら書く、その実例がここにあるからです。 注目されるのは、何を原案の柱とするか、本づくりでいえば目次でしょうか、それをまず、5人の討議で決めていることです。『移動図書館ひまわり号』174頁ですが、ちょっと読んでみます。 「まず、全体を「総論」「市町村立図書館」「区立図書館」「都立図書館」で構成すること、長期の施策と当面の施策の二本立てにすること、館数は自治体の広さに、規模はその人口に対応すること。蔵書数、年間購入冊数、施設の面積、職員数について基準の数値を示すことなどを決めた。そして、分担して一次案を作り、それを持ち寄って調整し、さらに二次案を作るというふうに繰り返していった。」 「図書館政策の課題と対策」とは こうしてできた小委員会案をプロジェクトチームに提案したところ、「総論」の文章がお役所風だなどの意見がでて、前川さんが「全く自分の文章に書き改め」、チーム会議にはかり 認められて報告書「図書館政策の課題と対策」ができあがったということです。 竹内 では、その内容を聞かせてください。 才津原 それではまず総論から。 「総論」では“くらしの中へ図書館を”を掲げ、「都民の求める資料の貸出しと児童へのサービスを当面の最重点施策とする」、また“都民の身近に図書館を”では、「大きい図書館を少し造るのではなく、都民の身近に数多くの地区図書館を造り、誰でも使えるようにする」このため、700メートル圏内にサービスポイントを設ける。 この700メートル圏内というのが、とても大切な規定で、調布市でのその後、800メート ル圏内という規定に大きな影響を与えたのではないかと思います。 「児童館、青年館、公民館、福祉センターの図書室は区市立図書館の分室とし、サービスを向上する」と銘記しています。(豊田市の交流センターの位置づけを考える時にヒントになるのではないでしょうか。)実際に日野市では社会教育センターの図書館と百草台児童図書館が市立図書館の分館になっています。 図書館は社会の基本施設 才津原 次に「図書館は社会の基本施設である」ということについて少しお話したいのですが。 竹内 どういうことか、簡単にお話いただければ。 才津原 まず、図書館は学生や好事家だけのものではなく、「市民生活に必要な、基礎的な社会施設」であるという考えを強く打ちだしたということです。基礎的な社会施設というのは社会の基本施設ともいえますが、「だれもが」「どこに住んでいても」日常的に利用できるものであることが、基本施設であることの意味することです。財政が厳しいという理由で学校を取りやめることがないのと同じ意味合いで、すべての住民の生涯にわたる学びを保障し、住民・市民の学校である図書館は社会の基本施設であるとの考えを報告の要にすえたのです。そのような考えに立てば、「東京都の図書館がいかに貧しい状況にあるか、そして行政が何をしなければならないかがはっきりします。」 2番目に、「『中小レポート』から日野市立図書館へと発展してきた、貸出しを基本にするという方向は、全国的にはまだ一部のものでしかありませんでしたが、報告書ははっきりと新しいサービスの方向にそって書かれ、その後の東京都の図書館の発展は、これによって3年間を経て方向づけられ、日本の図書館の進路に重大な影響を与えた」ということです。 そして3番目が図書館の基準の提示です。それは「図書館がサービスを行う時に必要な条件を基準として示し、図書館をこの条件まで引きあげるという、東京都の意思表示」でした。その後「図書館政策の課題と対策」の政策化は難しい局面もありましたが、それを乗り越えて東京都の中期計画にくりいれられ、一応「課題と対策」の線で実行されました。 竹内 何だか息詰まるような展開があったのではないかと思いますが、補助金の内容はどんなものだったのですか。 才津原 図書館の建設費と図書費の補助が主なものです。建設費については特別区(23区)は全額、市町村にたいしては建設費の2分の1の補助金。また図書費については、開設後3年間にに購入する図書購入費の2分の1の補助金でした。 竹内 建設費の補助は特別区は全額ですか。また市町村は半額の補助なんですね。 才津原 そうですね。都と区の間では、財政調整制度というものがあり、それに基づく調整額に全額が加算されています。市町村には半額の補助ですが、国の補助金は1割弱でしたから、それからみると、国の5倍以上の補助金ということになります。 また、「基準」という点から見た図書館の「整備目標」に注目したいと思います。実際には建設目標ですが、23区並びに人口密度の高い市については、当面(10年以内)4k㎡(半径1.14km)の地域に1館、人口密度の低い市と町については6k㎡(半径1.4km弱)の地域に1館、さらに市と町のなかで人口密度の希薄な地域は移動図書館の活用によって奉仕目標の達成を目指すとしたことです。活動の重点とすべき貸出目標については、貸出登録率を20%(当時2.5%)、年間の貸出冊数を人口の4倍(当時0.26冊)としていて、この当面の目標の達成を10年以内として、将来の目標については欧米先進国の標準的水準である登録率は30%以上、貸出し冊数は人口1人当り7~10冊を目標としています。 また、蔵書の充実目標を掲げていて、当面は人口当り1冊(当時都民1人に0.23冊)とし、このうち地区図書館の基本となる蔵書は、過去5年以内に出版された図書を基本にし、中心図書館の基本図書は過去10年以内に出版された図書を基本とするとし、将来の充実目標は欧米の水準の人口1人当り2冊の達成をめざすものとしています。このように数値の目標を明示していることが、「基準」が基準として、実際的な力を発揮できるかどうかの要点、勘所だと思います。 そしてこれらの奉仕目標や施設の整備目標、そして蔵書の充実目標にそって、建設すべき地区図書館の規模をエリア内の人口に応じて8つのタイプの図書館を建設することを標準、つまり「基準」として、その整備をすすめる必要があるとしています。 こうして 1971(昭和46)年から始まった図書館政策によって、特別区では地区図書館の建設が急速にすすめられ、多摩の市や町では、計画に準拠した地区館や中心図書館の建設や図書資料の充実が特別区と同じく急速に進められて、図書館サービスが飛躍的に発展する契機となったのですが、1976(昭和51)年にこの補助事業は、実質5年間で中段されてしまいます。前年の1975年に始まったオイルショックとそれに伴う不況の到来で、東京都の財政が急激に悪化したことによるものです。このようにわずか6年で中段されましたが、その後も多摩の市と町の図書館の建設は急速にすすみ、全国の図書館から注目される程の急速な成長とサービスの実績を築いたのでした。(『東京の近代図書館史』佐藤政孝;以下同様)  竹内 本当に内容のある図書館政策が中断されたことはとても残念ですが、それでも、図書館づくりの大きな勢いを作り出した政策だったのですね。その他に何か言われることがありますか。 才津原 これまでお話したように、中期計画では、奉仕目標や施設の整備目標、そして蔵書の充実目標などについては、「課題と対策」の内容を織り込むことができたのですが、肝心の人の面の充実課題については、1969年の図書館振興プロジェクトでは、その開設の目的が、図書館の建設と蔵書の充実を主体とする物の面の整備充実計画を策定することにあったこともあり、「司書の採用制度の確立は早急に実現すべき必要な課題である」と、課題の提起にとどまったのです。このことがとりわけ23区における現在の非常にきびしい職員体制になっている大きな要因であると思います。図書館の数はふえ、利用も飛躍的にたかまり利用度、人口当たりの貸出は47都道府県で一番高くなっているけれども、職員体制は惨憺たる状況という23区の現況に。 中期計画が何をもたらしたか、この結果、三多摩を中心に昭島、国立、東村山など本格的な図書館を誕生させ、“これが公共図書館だ”というイメージの定着化と、日本の図書館を前進させる牽引車の役割を果たすことになりました。(石井敦『社会教育施設のあり方』「権利としての図書館」1976) 数字で、その成果をみると 才津原 中期計画は1971(昭和46)年から1976(昭和51)年3月までの実質5年で中断しましたが、中期計画が始まる前年の1970(昭和45)年から、中断されて2年後の1978(昭和58)年までの9年間を比較すると、区立図書館は68館から105館に(1.5倍)。市町村立は14館から83館に(約6倍)増加し、人口100人当たりの年間貸出冊数は、区立が44冊から216冊へ(約5倍)、市立が53冊から364冊へと(約9倍)急上昇。「東京都はそれまで、人口当たりの数値では低位にあったが、この政策の実行後はつねに首位に立ち(一時期、滋賀県が首位に)、日本の公共図書館の目標になっています。」 『市民の図書館』とともに50年前に始められた東京都の図書館政策、「課題と対策」と「中期計画」は、「基準」についての考え方、その具体例、論議の仕方をはじめ、実に多くの豊かな示唆を、図書館の充実を願い考える市民に、今も手渡してくれる生きたテキストであると改めて思います。 1987年、福岡の図書館を考える会で市民がつくる市の図書館政策『2001年われらの図書館 ―すべての福岡市民が図書館を身近なものとするために―』づくりに取りかかった時、大きな示唆をうけたのが、「課題と対策」であったことを思いだしました。 なお、「図書館政策の課題と対策」が当面の目標とした東京の図書館の数値は、7年後の1987年に実現しています。(①蔵書(1人当たり)の目標2冊➡2冊、②登録率の目標20%➡20%、③貸出冊数(1人当たり)4冊➡4.12冊。 となっています。 竹内 計画で目標とした数値をしっかり実現しているのですね。50年前の過去の例というだけではなく、今の今、大いに役に立つ先例ということですね。 滋賀県の図書館振興策 今も県の振興策の手本 竹内 それでは、あと2つ。滋賀県の図書館振興策と調布市の図書館政策については? 才津原 そうですね。滋賀の振興策についてお話する前に、その前段のことをお話しておきたいと思います. 話が前後しますが、これは前川さんから県立図書館長を引きついだ澤田正春さんが、1995(平成7)年10月に滋賀県で開催された全国公共図書館奉仕部門研究集会の講演で、「滋賀県の図書館振興策」を語る冒頭での発言だったのですが、「滋賀県が動き出したのは、県教委の中に文化部ができまして、文化行政推進のひとつの柱に図書館振興を位置づけたということが出発点でした。その中核に上原恵美さん(現・滋賀県政策監)がおられた。この方がおられたということが、滋賀県の図書館の基礎を行政の面から支えていくうえで非常に大きかったと思います。」さらに、「そして県全体の図書館振興推進の要として、前川恒雄氏に日野市から来ていただいたのです。これが滋賀県の図書館づくりを決定的なものにしたと思います。」と述べています。 上原さんは1979(昭和54)年7月に文化振興課長となりますが(1968年労働省入省、1978年滋賀県商工労働部観光物産課長・出向)、そこでの課題が県立図書館の建設と開館準備でした。武村正義県知事から、まず県立図書館長を探すよう命じられ、図書館のことでは門外漢であった上原さんは県立図書館の役割を検討するため、「滋賀県図書館振興対策委員会」を立ち上げ、6名の特別委員による、3日間の研修会を設置することから仕事を始めています。 そして武村正義県知事から、課長の最初の仕事として、県立図書館長を探すことを命じられていた上原さんは、図書館界の事情をまったく知らないなかで、研修会の講師の1人だった森耕一氏に相談したところ、同じく講師の1人だった前川さんが候補にあがり、一度は日野市長に断られたものの、あきらめず1980年4月、前川さんの館長就任への道をひらいたのです。その後も滋賀県の振興策づくりで、前川さんとともに大きな働きをされます。のちに「政策監」という副知事と同じくらいの位置づけの場で仕事をされたことからもうかがわれますが、行政的手腕に秀でた人が、振興策づくり、その後の滋賀県の図書館づくりの要にいたということです。 ここでも人ですね。人のつながり、ヒトの連なり。 滋賀県民→武村正義→上原恵美→森耕一→前川恒雄→(滋賀に全国各地から)澤田正春→・・・ 竹内 それでは滋賀県の図書館の振興策についてのお話を 才津原 前段の話が長くなってしまいましたが、「基準」とそれに関わって、自治体の図書館政策が実際に大きな力を発揮した2つ目の実例ということで、滋賀県の振興策についてですね。 先ほど話しましたように、ここでも、前川さんから始まっているのですね。ただ、これまで前川さんの足跡に沿って話してきましたが、これは決して前川さんを超人、スーパーマンのように考えてのことではありません。前川さんがぶつかり、切り開いてきた道は、前川さんたちの考えとその実践に共鳴し賛同して、思いを同じくした一人ひとり、無数の図書館員や市民の人たちの行動によってであることは言うまでもありません。このことは前川さん自身が語ってもおられることです。「日野を例外にしない、日野に続く町田や府中の動き」、そして全国各地の動きがその道を切り開いてきたと。その上で滋賀県の場合ですね。 竹内 私たち市民の活動もということですね。それでは滋賀のお話を。 滋賀県の図書館振興策の特徴は 才津原 滋賀県の図書館振興策は何かひとつの要綱なり、まとまった冊子がある訳ではありません。前川さんが滋賀県立図書館の館長として着任した翌年の1981(昭和56)年に 滋賀県の各種補助政策がスタートしていますが、県の市町村立図書館振興の各種施策や県立図書館の市町村立図書館に対するバックアップ体制、そして未設置町村への様々な働きかけ、それに応える市町村の図書館設置、これらが有機的につながったものが滋賀県の図書館振興策です。 見逃せないのは、補助政策の立案、実施に至るまでの取り組みです。当時、滋賀県内の図書館の設置率は、全国で下から2番目で、利用も最下位に近い状態でした。 先ほどの話にかさなりますが、滋賀県では1979(昭和54)年に、滋賀県内の図書館の整備、振興を図るため、県内外の図書館の専門家を委員に招いて「滋賀県図書館振興対策委員会」を設置して翌年の3月に『図書館振興に関する提言』‘80をまとめ、新しい図書館の存り方と県の図書館振興にかける強い姿勢を県内の自治体に示しています。委員会には県の関係部署の職員の他に6名の特別委員を選んでいます。 東京都の図書館政策の原案の作成に関わった佐藤政孝(東京都立中央図書館管理部長)、前川恒雄(日野市企画財政部長)の他に、伊藤昭治(神戸市立中央図書館奉仕係長)、森耕一(京都大学)、栗原嘉一郎(筑波大学)、小田泰正(京都産業大学)の各氏など、図書館活動の最先端で活動する図書館員や研究者を選んでいて、その人選に目をみはります。上原さんの力を思います。委員会からだされる報告が中身あるものになるだろうことが期待される委員の構成だと思われます。 この提言に基づいて具体化されたのが1981年に始まった各種補助施策で、(1)図書館建設に対する施設整備補助、(2)移動図書館車の購入補助、(3)図書購入補助の3点を柱としています。 この補助施策は「基準」の働き、それが力を発揮するためには、どのような考え方や、しかけが必要かを教えてくれる内容をもっています。なんであれ「基準」ができれば、それで、物事や事態が前にすすむ、あるいは解決の方に向かうわけではありません。これで安心というわけではない、そういう事例は少なくありません。「基準」そのものの中に、「基準」が力をもつためのしかけが必要なのです。「基準」は力をもってこそ、「基準」の意味があるのだと言えます。 滋賀県の施策では、図書購入費の一定水準の継続的な確保が図書館活動を支えるもっとも大事だとの考えから、1972年の「公立図書館の望ましい基準(案)」(専門委案)に示された人口当たりの年間購入冊数を基準に、それを上回った図書館に購入費の3分の1を補助するもので、図書館の基礎的条件である図書資料の充実を誘導する明確な意図をもったものでした。 「公立図書館の望ましい基準(案)」は、前川さんも委員として関わってできたとき、国はそれを公示しなかったため、自治体によっては、それは(案)であって「基準」ではないとして無視するところと、その「基準(案)」を運営の指針や、図書館のサービス目標に取り込むところとに分かれ、大多数が取りこまずにきてしまった経緯があります。そうした中で滋賀県では、補助政策の中の正式な「基準」として、「基準(案)」(専門委案)を活用したということです。 そこには県当局ならびに県立図書館の「看板だけの図書館ならつくらない。設置のペースは遅くとも、確実に住民の期待に応える図書館をつくっていく」という確固たる考え、理念があったということです。 『未来の図書館のために』のなかで、「市町村に対する図書館設置と図書費補助のスタート」となった」補助政策について、「上原恵美文化振興課長と相談して補助要綱を決めたが、私の思うとおりに作られた。県内の設置率をあげても意味はなく、内容がある水準以上でなければならないことを説いて、施設建設費、移動図書館購入費、図書費にそれぞれ三分の一補助することとし、次のような条件をつけた。 ① 図書館法の「最低基準」を満たしていること。 【「館長は、専任且つ有給の者」「増加冊数」「司書数」「延べ面積」の明示】 ② 移動図書館の積載冊数は千冊以上であること。 ③ 図書館の開館時の図書については、二万冊以上の図書を用意し専任の司書をおくこと。 ④年間購入冊数は人口の八分の一以上であること。 これにより一九八一年以後次から次へと図書館が増えていった。」  (66頁) 一度つくったら、それで終わりではない 才津原 さらに一度つくった補助政策を県内の情勢の推移をふまえて改正し、さらに充実した政策としていることです。 竹内 一度つくって、それで終わりではないのですね。 才津原 補助政策が実施されて10年がたち、図書館の設置が小規模の自治体に波及してきたため、「小さな自治体にこそ、一定レベルの規模と蔵書を確保した図書館が必要である」との判断から、開館時における図書購入費の開館時補助(開館時2万冊以上の蔵書)、建物の延べ床面積の下限設定(延床面積600㎡以上の施設に対してのみ建設費補助をおこなう)を追加しています。これも新設される図書館の一定水準のサービスを確保するうえで、重要な基準の設定です。 この補助施策により、人口1万人前後の小さな自治体で、延床面積千数百㎡、開館時蔵書4~5万冊の図書館が続々開館し、活発な図書館サービスを展開しています。」(『滋賀の図書館』「滋賀の図書館10年を検証する」滋賀県公共図書館協議会 平成7・1995:以下も同書による) また、先に滋賀県の図書館振興策は、「ひとつの要綱なり、まとまった冊子があるわけではない」といったのは、次のような県当局の取り組みをさしてのことです。 滋賀の「県当局が補助施策とともに取り組み、大きな成果をあげたのが、未設置自治体に対する設置への啓発です。県では(補助施策をつくってからの)10年間、図書館振興を担当する県教委文化振興課が市町村長、教育長を対象とした図書館振興に関する研修会の実施や、啓発資料として『市町村図書館の建設に向けて』‘88(昭63)」の配布、滋賀県の図書館振興をさらに発展させるための『滋賀県図書館振興懇談会』’88(昭63)の設置(『湖国の21世紀を創る図書館整備計画』‘88(昭63.10)として報告)など、行政レベルでの様々な機会を利用して市町村に図書館設置をすすめ、お金を出すだけではなく、「こういう図書館をぜひつくってほしい」ということを、積極的に働きかけたことも図書館振興にとって大切な取り組みであったと考えられます。 しかも図書館という建物をつくってくださいというだけでなく、住民に利用される図書館にするには専門職の司書の配置が重要であること、とりわけ館長には、経験のある専門家が必要であること、図書館計画は専門職館長のもとですすめることがよい図書館をつくる秘訣であること等の助言が、専門職館長のもとでの新設館のめざましい利用状況を目の当たりにして、自治体首長の図書館に対する意識を変えるのに有効に働いたと考えられます。 このような滋賀県の振興策をはじめとする活動が何をもたらしたかをよく表しているのが、専任職員の司書有資格者率(正規職員のうち司書の資格をもつ職員の割合)と貸出密度(人口当たり年間貸出点数)です。中学校区設置率(1つの自治体の図書館数と公立中学校数の割合、図書館数÷公立中学校数×100)もあわせて紹介します。2017年度の数値ですが、 1.「専任職員有資格者率」①位、滋賀県82.9%、②岡山県75.2%、㊶東京都40.3% 2.「貸出密度」①東京都8.3点、②滋賀県7.2、③大阪府6.1 3.「中学校区設置率」①富山県68%、②東京都63.4%、⑤滋賀県48% ちなみに、中学校区設置率が一番高い富山県の貸出密度は4.6となっていて、図書館数は多くても、図書館利用の要である貸出は東京の55%、約半分強の数値になっています。これは、ただ図書館数が多ければよいのではなく、施設の規模(床面積)や、年間購入冊数、そして職員の態勢などが、よく利用される図書館になるための重要な要件であることを示すものと思われます。 東京都の図書館政策も滋賀県の振興策も、「単に補助金を交付するだけではなく、館長や職員に司書資格を求めています。(それを補助金の交付条件にしています)図書館の発展のためには、単に金だけではなく、いかに職員が重要であるかが分かっていたからです。」 そこが肝心要なのですね。 竹内 東京は貸出密度は全国で1番高いといっても、職員体制では大きな問題を抱えているのですね。専任職員で司書の資格を持つ人の割合が、滋賀県の約83%にたいし、東京は は約40%と、なんと半分以下なんですね。 滋賀の補助政策は東京都の図書館政策が実施されて10年後に、東京都の政策の核心に学びながら、つくられていったように思いますが、他府県ではこのような取り組みは行われてきたのでしょうか。 才津原 府県により、個別的な取り組みは行われていますが、残念なことに東京や滋賀に学び、府県内全体の図書館のサービスを底上げし、高めていく取り組みは十分には行われていません。その意味では、30年前に始められた滋賀県の取り組みは、県や市の図書館の政策や計画を考える時、今も大切なヒントを得る生きた実例だと思います。 大分県の図書館振興策(『報告書』、前川氏が委員長) 1995年 実は私が苅田町立図書館を退職する間際に、大分県でそのような振興策を作ろうという動きがあり、前川さんが委員長で、県外からは当時長崎県の森山町立図書館準備室長の渡部幹雄さんと私も加わって、「大分県公立図書館振興策検討委員会」が設置され『報告書』が出されています。その委員会の「報告書」の内容の通りに、政策化されて実施されていれば、大分県の図書館ばかりでなく、九州、日本の図書館を変えるものになっていたのではないかと思う内容でしたが、残念ながら、補助条件の一番大事な点(図書館長が専任、正規、専門職であること)が削除され、図書費の補助期間も、『報告書』では10年間だったものが、3年間となって施行されてしまいました。その結果がどうなったかは、その後の大分県の在りようが語っていると思いますが、『報告書』で示された「考え方」や「基準」の内容は、今も、これからの県の振興策を考える時の大事な「たたき台」になるものと考えています。前川さんが、これからの図書館を考える私たちに手渡し、遺してくださった生きた知恵袋であるとも思っています。その内容、経緯については、添付資料①で紹介したいと思います。 竹内 それでは、自治体が大きな効果を発揮した市のケース、調布市のことを。 なぜ調布市なのか  調布市の図書館政策  才津原 やっと調布市にたどりつきました。長い話となって、ここまでつきあっていただき申し訳ありません。ただ私としてはこの際、今考えていることをさらに、できる限り考えてお話してみようと、竹内さんの問いに導かれてここまできたように思います。 なぜ、調布市なのか。これについては、最初の原稿(以下、「初稿」という)の第8章「さいごに」に書きました、「竹内悊(さとる)さんからの贈りもの」を、全文引用して、ここで紹介させていただきたいと思います。竹内さんと同じお名前ですが、初稿が終盤にさしかかっていた時に出版された竹内悊さんの『生きるための図書館― 一人ひとりのために』(岩波新書 2019.6.20)に触れて書いたものです。なぜさいごにお話するのが調布市立図書館なのか、そのことを竹内悊さんのご本が語っているからです。 あのように長くなってしまった初稿を読んでくださる方は少ないと思います。それがどんなものか、その一端をお伝えするとともに、初稿で私が豊田市のみなさんにお伝えしたいと考えていたことが、そこに結語としてあるように考えるからです。 「竹内悊(さとる)さんからの贈りもの」  〈初稿からの引用です〉 この原稿は「図書館は何をするところか」、「図書館の発見」(とは何か)をめぐって書き始めたのですが、原稿の終盤にとりかかっていた6月下旬、竹内悊さんの『生きるための図書館 ― 一人ひとりのために』(岩波新書 2019.6.20)が刊行されました。この書は私にとってまさしく待望の一書で、私がこの原稿で考え書こうとしているものが何であるかを照らしだすものでした。 「図書館とは何だろう」と考える読者一人ひとりへの、そして豊田市のみなさんへの、1927年生まれの著者からのこの上ない贈りものとも思われました。私自身、読者の一人として、このような著者と同時代に生き、その深い思索から生まれる簡明、簡潔な言葉、文(章) を手にすることができる有り難さに思いを深くしました。一人の読者を深く励ましてやまない、そして一つひとつのことに気づきを促す竹内さんの声がこの本の随所から聞こえてきます。 6章からなる1章1章、ほんとうに目を見開かされる思いと、よく考えるとは、考えを深めるとはこういうことかと、驚きながら読み進めましたが、なんと第1章は、「地域の図書館をたずねて」で、「1 自宅から歩いたところの図書館に」から始まっています。 私が(今、書いているこの)原稿で豊田のみなさんにお伝えしたいと考えていた「分館とは何か」(地域のどこに住んでいても、誰でも利用できる全域サービス網の中での分館とはどういうものか)が、そこに明瞭に書かれています。 竹内さんは〈全国に三二〇〇を超える公立図書館の中で、「こういうところが身近にあったら」と思える地域の図書館はどこだろうか、と相談をして、まずここをとなった〉図書館を訪ねたのです。 〈三月の末、刺すような北風のやんだ日〉、〈東京の西部、多摩地区の市立図書館分館〉でした。〈この日はつい数年前まで近くの市立図書館長であったSさんに同行を依頼して、朝八時半から午後四時までを館内で過ごし、いろいろなことを見聞きしました。そして「今日、ここに来てよかった!」というさわやかな思いで、この図書館を後にしました。以下は、私たちの印象とメモからの報告です。〉 分館で過ごす利用者の様子や職員の働き、「人の目には見えない仕事」。 司書と嘱託職員との意思の疎通の円滑さが分館運営に活きている様から、「この市は、図書館で働くひとの能力と資質を大事にしていますから、それがサービスに現れるのです。」 「歩いて来られるところにあることが大事です」と思わせる分館についての文章についで、 この分館のある市全体の図書館について書かれています。 この市の人口は豊田市の約54%(約半分の)「人口23万余り、22平方キロメートルの中に 公立小学校20校、私立小学校2校、公立中学校8校、そのほかに公私立の高等学校や大学があります。そこに中央図書館と分館10館、つまり図書館は中学校区に1つ、そして人口からみれば2万人に1つあることになります。これは誰でも自宅から歩いて10分以内、つまり800メートルに1つの図書館という市の計画が実現したからです。 市立図書館の蔵書は、2015年現在137万点【豊田市173.5万:2017年度;以下同様】です。これは市民1人あたり5.9点【4.1】にあたります。貸し出しは年間264万点【豊田市315万点】、市民1人あたり11.4【7.4】です。この年の全国平均は5.5ですから、その2.1倍というのは、全国的にみて、市民がよく図書館を利用していることになります。 ここでは、こういう貸し出し状況が10年以上も続いています。この状況を支えている図書館の資料購入費は、市民1人あたり395円【214円】です。 中央図書館は市の中心部にあって、午前9時から午後8時半まで開館。  (略) 図書館の正職員は62人(うち司書有資格者44人)、専門嘱託員は155人、全員3交代制で勤務しています。(2016年度)」 (※注:漢数字を算用数字に変更) 以上、『生きるための図書館 ― 一人ひとりのために』からの引用ですが、この市立図書館は、調布市立図書館です。本書では意図的に名前が伏せられています。 それはつぎの理由によるものです。 「図書館の名前は伏せました。ここに引いた実践を優れた条件に支えられた特別な事例であって及び難いものではなく、一つの支えとして各図書館の充実がはかられることを期待したからです。」 ほんとうに、ここから歩んでいきたいと考えます。 調布市立図書館といえば、私自身の心に刻まれていることがあります。今から28年前の1991(平成3)年9月の調布市議会で、当時の市長が中央図書館を含む「(仮称)市民文化 プラザ」の管理運営を第三者機関に委託することを検討していると表明されたことが事態の発端であったのではないかと思います。調布市の市民や図書館員はもとより、とりわけ三多摩や東京の図書館員や、図書館に心よせる周辺自治体の市民に大きな衝撃を与える出来事でした。そして全国の図書館員や市民にも。 1993年3月議会で市は委託の方針を表明、それから1995(平成7)年9月の中央図書館 の直営による開館まで、実に様々なことがあったのだと思われます。その当時に開かれた、図書館の委託問題を考える集いで、調布市民の一人の女性が発言された言葉を、私はある冊子で読みました。 その人は「私はこれまで調布市の素晴らしい図書館サービスを本当に満足して受けてきました。今、考えますにそのような私の図書館との関わり方が、図書館の委託の問題を生み出しているのでは」と。 竹内さんは、前述したある「市の図書館」の概要の説明に続いて、1966(昭和41)年に開館したその図書館が開館「以来50年、さまざまな難関を乗り越えてき」て、その図書館サービスの積み重ねの中から、この図書館の基本方針がうまれました。」と記し、この基本方針は、「市全体での理解」が必要で、「図書館の中だけではなく、市役所も、議会も、市民も、市民生活のために必要なものと理解し、市の機関の一つとして維持・発展させる体制が必要です。これは図書館からの不断の働きかけと、サービスの蓄積、それに注目する人々の支援が不可欠ですし、図書館員個人も、図書館に勤めて市民のために」働きます。・・・」 と記しています。 先の委託を考える集会での一人の女性の発言を、竹内さんの「図書館からの不断の働きかけと、サービスの蓄積、それに注目する人々の支援が不可欠です」に重ねて読んで、あらためて、豊田市の図書館を考える市民の会の活動の大切さを痛切に感じています。 ここでは、『生きるための図書館 ― 一人ひとりのために』について、ほんの一端しか触れることができませんでしたが、「市民一人ひとり、そしてみんなの図書館」を市民が手にするために、図書館への深い理解と底深い元気を手渡されるこの本を伴侶として、考える会のみなさんとともに歩んで行きたいと考えています。 以上が当初に書きました原稿、初稿の末尾の文章です。 なお、インタビュ―が終りに近づいたさなか、竹内悊さんから、ある文庫の50年記念誌を 贈っていただきました。まさにこのインタビューのさいごの時を照らしだす灯のような冊子でした。(「大沢家庭文庫 50年記念誌」)竹内悊さんからの「もう一つの贈りもの」については、添付資料の〈Ⅲ〉で紹介させていただきます。 調布市立図書館の図書館計画(分館網計画) 竹内 それでは、才津原さんの長い長いお話、高いお山の頂まで、あと少しという感じですが、調布市立図書館について、さらにお話したいことがあれば。 才津原 日野市立図書館が開館した次の年の1966(昭和41)年6月に開館した調布市立図書館は、早くも翌年の1967(昭和42)年に、市民の身近なところに図書館をつくり「いつでも」「どこでも」「だれでも」利用できる図書館にしていくため、第一次図書館計画を策定しています。この計画は1963(昭和38)年の『中小レポート』を参考に、はじめは半径1.5㎞圏にという分館網をつくるという計画でした。1969(昭和44年)には、分館の第1号の国領分館が開館しましたが、この上ないタイミングで始まった(1970・昭和45年)「東京都の図書館政策」(建設費の2分の1,開設後3カ年の図書購入費の3分の1の補助)が、調布市の分館の整備を進める上で実に大きな力となりました。この間、『東京都の図書館政策』を背景に、第二次図書館計画(1970・昭和45:人口2万人、半径1㎞圏に1つの図書館、市民1人当り1.5冊の蔵書)、そして1972(昭和47)年には第三次図書館政策を策定して、私にとっては目が覚めるような、明解な3原則が提起されたのでした。   1.半径800mに1つの図書館 2. 人口20,000人に1つの図書館 3. 2つの小学校区に1つの図書館 この第三次計画は1973(昭和48)年には一部修正されて、1976(昭和51)年度までに中央館と10の分館を建設するという計画になっています。こうして「様々な難関を乗り越えて」1995(平成7)年の新中央館開館までの歩みとなるのです。 自治体が住民がだれでもわかる明確な目標を掲げ、基準を定めて、計画を作成し、その計画を着実に実行していく、そして事態の進行、状況の変化をふまえて、さらに計画を充実したものにしていく。そうして生まれるものが何であるか。調布市立図書館の歩み、その実践は、明解な3原則とともに、今の今、私たちがどこからとりかかるか、何をすべきかを、その豊かな実例の数々で示して、私たちの目の前にあるように思います。 以上で調布市立図書館の話を終えることにします。 調布市立図書館については、少し長い添付資料【Ⅱ】を用意しましたので、あとで目を通していただければと思います。 「望ましい基準」から豊田市図書館をみると 才津原 やっと最後の章にたどりつきました。竹内さん、ほんとうに長時間ここまでつきあって下さりありがとうございます。これまでの話でポイントとなる点は、お話してきたと思いますので、それをふまえてお話できればと思っています。    一体に、その人の住んでいる地域、市や町や村の図書館が、住民にどれだけ利用されているのかを知るのに、単に貸出し点数や登録者の総数をみるだけではよくわからないと思います。例えば2017年度の豊田市図書館の1年間の貸出し点数は315万3千点でした、と言われても、それが高い数値であるのか、低いものであるのか、どういうことを意味する数値であるのかを判断することは難しいですね。それを考えるには“ものさし”が必要です。 竹内 豊田市の図書館の活動がどんなものか、写しだす鏡ですね。 才津原 そうですね、「ものさし」は自分の姿を映しだす鏡と言えますね。 図書館の活動の実態を照らしだす「ものさし」でもある「望ましい基準」は、図書館法が制定されて51年後の2001年にようやく公示されましたが(2012年、全面改正)、そこには、「理念、考え方」は提示されたものの、「基準」を具体化していくために重要な「指標」や「数値目標」は示されませんでした。つまり「数値目標」を示さず、それを実現するための国の財政的措置もとられなかったわけです。このため、せっかく「望ましい基準」が公示されても、現実的には公立図書館の現況を変える動きを生み出さなかったのです。 竹内 わー、何ということでしょう。51年たってようやく公示された「望ましい基準」なのに。 才津原 ほんとうにそうですね。このため、2006年に文部省の「図書館の存り方検討協力者会議」が指標を定め、政令指定都市と特別区を除いて、全国の図書館を設置する市町村を人口段階別に、貸出し上位10%の図書館の平均数値を具体的な「数値目標」(実際には「基準値」)として提示し、以後『図書館雑誌』(日本図書館協会)の5月号に「貸出上位の公立図書館の整備状況」(以下、『比較表』という。)と題して毎年掲載されています。(2020年は事情により未掲載) この「基準値」はそれぞれの図書館の現況を把握し、その図書館のこれからの目標を定める時の大切な基準、そして「ものさし」となるものですが、かつて、1972年に「望ましい基準(案)」(「図書館専門委員会案」)が示された時と同じ対応が、図書館の現場でみられました。つまり伊万里市民図書館のように、各地の図書館の綿密な調査をした上で、「基準値」を参考にして図書館協議会で検討して目標を設定する図書館と、私が住む糸島市での議会答弁にみられるように、それは、協力者会議の「案」であって、「望ましい基準」ではないとして、何ら基準づくりの参考にしない多数の図書館とに。(『伊万里市民図書館の望ましい基準』、毎年『図書館通信』初夏号で「伊万里市民の望ましい基準値(目標値)との比較」として市民に公表) 豊田市図書館の活動をみるのに、この「基準値」を「ものさし」とすることは、豊田市図書館が直面している課題を明らかにするとともに、これから豊田市図書館が目ざすべき方向、目標を定めることにつながることだと思います。 竹内 豊田市でも、この「基準値」を使っていくということですね。 才津原 そしてこの「基準値」とともに、町田市立図書館を、もう一つの「ものさし」として、あわせて活用することが、より豊田市の図書館の実態を照らし出すことになると私は考えています。                【添付資料 Ⅳ,Ⅴ、Ⅵ、Ⅶ 】 なぜ、町田市立図書館を比較の対象にするのか 竹内 なぜ町田市の図書館なのでしょうか。 才津原 まず、私がこれから述べるのは、『日本の図書館2018』(日本図書館協会)の統計を使っていることをお話した上で、つまり実際は2017(平成29)年度の数値ですが、(『図書館雑誌』2019年5月号)、なぜ町田市立図書館か、次の5点をあげたいと思います。 1. 人口は豊田市の42万4千人に対して、町田市は42万9千人と、人口段階別では両市は、「人口30万~」(30万人以上)に属し、ほぼ同規模の人口であること。 2. 人口段階別には、14のグループに分けていて、「人口30万~」で、図書館を設置している市は51市です。この51市のうち、貸出密度(住民1人当たりの貸出資料数)上位10%の市は、吹田市、町田市、豊中市、藤沢市、枚方市、高槻市の6市です。 町田市はこの上位10%に入る、人口同規模の市ではトップクラスの利用度であること。 3. 1965年に開館した日野市立図書館が切り開いた「図書館革命」とも呼ばれた、多摩地域の図書館と共に歩んできた図書館であること。 4. 町田市は「中学校区設置率」(公立中学校数と図書館数が同数であるときを100%とする)は40%(市立中学20校、図書館数8館:自動車図書館数3台)で、「中学校区に図書館を」という点では、まだ大きな課題はありますが、全域サービスを目指して活動していること。 5. 貸出密度が高い図書館の、指数ごとの平均値(基準値)だけを「ものさし」にするのではなく、具体的に参考になる図書館を特定して比較すると、より具体的に考えることができるため。 以上が、町田市を比較の対象として選ぶ理由です。 竹内 町田市は人口は豊田市と同じくらいで、人口30万人以上のグループにはいり、利用度も高く、移動図書館や分館による、市内どこに住んでいても、市民が誰でも利用できるサービスを目指して活動している図書館であるということですね。 「基準値」と「町田市立図書館」を「ものさし」として見ると 才津原 そうですね。それでは「基準値」と「町田市立図書館」を「ものさし」にして、豊田市の図書館をみると、どんなことが見えるかということですね。 市民一人ひとりが図書館を利用するもっとも一般的な方法は「貸出」です。そして図書館がどれだけ市民に利用されているか,市民の暮らしの中への図書館の定着度を表わすもっとも基本的な指標が貸出密度(人口当たり貸出点数)で、国の内外で基準の指標とされています。『比較表』の標題が「貸出密度上位の公立図書館の整備状況」であることからも明らかなように、「貸出(密度)」を第1の基準にして作成されています。 2017年度の1年間の豊田市図書館の貸出は315万3千点で、貸出密度は7.4でした。 人口30万人以上の図書館の貸出密度の上位10%の図書館(「基準値」)は「貸出点数」が351万8千点(100の位を四捨五入)、「貸出密度」が8.9でしたから、豊田市の到達度は、「貸出点数」で90%、「貸出密度」では83%となっています。一方、町田市立図書館の貸出点数は378万点、貸出密度は8.8でしたから、到達度は「貸出点数」は107%、「貸出密度」は99%ということになります。町田市立図書館は「貸出点数」では「基準値」をこえ、豊田市を62万7千点上回っています。 年間貸出し60万点というのは、どんな数値か 竹内 町田市の図書館は豊田市より年間の貸出しが62万7千冊多いということですが、 この差をどのように考えたらいいでしょうか。 才津原 1年間の貸出が60万冊(点)という数字がどういう数字であるか、私にとってはある具体性を感じる数値です。私は5つの公共図書館で働いてきましたが、4つ目の図書館が、北九州市の南側に隣接した人口32400人の苅田町でした。1988年12月1日、準備室発足時から働きはじめ、1990年5月の開館から1995年3月まで勤務し、4月からは滋賀県の人口2万3000人の能登川町の図書館、博物館の準備室に移るまで、苅田町では図書館開館後、まる5年を過ごしました。苅田町の図書館計画では、開館時の目標を人口の25%(登録率)、町民1人当り6冊(1990年度の貸出密度の全国平均は2.17冊でしたから、全国平均の約3倍)、開館から5年後の目標を登録率33%,町民1人当り7.92冊(年間26万2千冊)としていました。 【1988年1月、「福岡市の図書館を考える会」刊行の『2001年われらの図書館―すべての福岡市民が図書館を身近なものとするために―』では、全国の図書館を設置している自治体1027市区町村のうち、貸出密度6以上は35自治体、8以上は6自治体、10をこえているのは、北海道訓子府町(12.5)と千葉県浦安市(10.1)の2つの自治体のみ、福岡市は1.6】 しかし、町民の図書館に寄せる期待の大きさは私たちの想定をはるかに超えるものでした。初年度の1990年度は11か月間の開館でしたが、5年後の目標を初年度から大幅にこえた貸出密度9.79、以後、1991年12.51、92年14.24、93年15.24、そして私の苅田での最後の年、1994年度は16.58で、57万3千冊の貸出し、登録率は71.5%でした。そして退職2年後の1996年には貸出密度は17冊をこえ、60万5千冊と、はじめて60万冊をこえる貸出となっているのです。【町立図書館が開館するまでは公民館図書室(205㎡):登録率6%、貸出密度1】 昨日までは、図書館を利用していなかった住民の多く方たちが、図書館が生まれるとたちまち、ずっと以前から利用していたように、すっかり馴染んで図書館を利用されている様に心動かされる日々でした。 竹内 何か、勢いというか、すごいスピードですね。 才津原 ほんとうに。先ほど話しましたように、図書館の計画では初年度の登録率25%、貸出密度6とし,5年後を登録率33%、貸出7.82としていましたが、登録が50%をこえたのが、開館して1年4か月後のことで、開館2年目は登録が53.3%、貸出し密度は12.51でした。 千葉県の浦安市立図書館は1982(昭和57)年に移動図書館からはじめ、分館そして本館の開館をへて3年目で登録率50%に到達していましたから、苅田まちでは私たちの計画、予想をはるかにこえる早さであったと思います。 開館準備期間1年6カ月を含めて私がいた7年の間に、本館の他、3つの分館と移動図書館による組織網を整備した苅田町の取り組みによるものですが、私自身は、いまだ利用していない町民(未登録28.5%)への取り組みやハンディキャップサービスをはじめ、図書館としてはようやくスタートラインに立てたかなという思いでした。 いずれにしても、人口3万4千人ほどの町で、60万冊の貸出し(貸出密度18冊)というのは行政が、住民が「どこに住んでいても」「だれでも」利用できる図書館づくりに焦点を定めて本気で取り組み、図書館網を整備してシステムとしての図書館づくりに力をつくしてようやく生まれたものだと思います。それはどの地域でも、そのように利用する住民がいるということでもあります。利用度が低い地域があるとすれば、それは住民の読書に対する関心の高さ、低さによるのではなく、行政の取り組み方にその原因があるのだと思います。60万冊というのは、人口3万4000人の町で実際に貸出しされた数値であり、どの地域でも、そのような図書館の利用を求める住民がいるということでもあります。 人口は同じくらいなのに、なぜ町田市より62万冊も利用が少ないのか。 竹内 2017年度の豊田市図書館の市民1人当りの貸出しは7.4でしたから、62万7千冊を7.4で割ると、84,729、約8万5千です。これは豊田市の人口42万4千人の20%、1/5にあたる数値で、これだけの豊田市民が利用できていないと、みることができるわけですね。62万冊というのは、豊田市では8万5千人が利用する、いや、利用できていない数値なんだと。それでは、62万冊という差を生みだしている要因はなんでしょうか。 才津原 わー、62万冊という数値は、いまだ図書館を利用できていない8万5千人の豊田市民がいることだというように、数字を私たちの体で体感できるように考えていくことは、とても大切ですね。 町田市との差、62万7千点というのは、豊田市の年間貸出点数の20%、1/5になる大きな数値です。「貸出密度」でみると、豊田市の到達度83%に対して、町田市は99%で16%の格差があることになります。 62万冊の差というのは、とても大きな格差といえますが、先ほど話ましたようにこれは、豊田市の市民が町田市の市民より、読書に対する関心がより低いことから起こっているのではまったくないということです。 豊田市の中央館は床面積が12,567㎡で町田市の中央館5,262㎡の2.4倍と大きな図書館でですが、中央館の貸出をみると、豊田市が143万8,000点、町田市が141万5,000点と大きな差はありません。豊田市の中央館と32か所のサービスポイントの貸出(171万5,000 点)との割合をみると、中央館が46%、サービスポイントが54%となっています。サービスポイントの方が多いのですね。つまり、市民の身近にある所での利用が多いわけです。一方、町田市では中央館と7つの分館(236万7,000点)との割合は37%と63%です。町田市でも中央館以外、つまり分館の貸出が多くなっていますが、中央館以外の貸出が、豊田市では54%であるのに対し町田市では63%です。両市の中央館の貸出しの差は2万3千冊と大差はありませんでしたから、62万冊の差を生み出しているのは、中央館以外の図書館のありかたです。 分館網が整備されているかどうか、豊田市のサービスポイントは分館ではなく、職員(司書)も配置されておらず、予約、リクエストやレファレンスなどに応えるものではないという実態がこの格差を生みだしているのです。 「貸出」は図書館サービスの全体を象徴するもの、とは 才津原 これまで、豊田市と町田市の貸出点数の差ということで話してきましたが、私は貸出(点数)だけを問題にしているのでは、まったくありません。「貸出」は図書館サービスの核であるというのは、「貸出」が図書館サービス全体を象徴するものでもあるということです。つまり、「貸出」は予約やリクエスト、レファレンスサービスや図書館での様々な集会・活動に直接つながっていると私は考えています。ここでは、「予約・リクエストサービス」と「図書館間借り受け」について、ふれたいと思います。 「予約・リクエストサービス」について 豊田市の予約件数は21万8700件で、「到達度」は32%、うち中央館が全体の90%の19万4700件で、31のサービスポイント(子ども図書室を除く)では24500件で、全体の2%でした。豊田市の「貸出密度」の到達度83%に対して、予約件数の到達度32%の低さが際立っています。 町田市は63万4000件で、豊田市の3倍の件数です。到達度は84%と豊田市の2.6倍です。 中央館は17万6000件で、全体の28%、分館が45万7900件で全体の72%を占めています。中央館では豊田市が18700件多くなっていますが、中央館以外では、豊田市の24500件に対し町田市の45万7900件とその差は43万3400件と圧倒的な格差となっていて、豊田市と町田市の予約件数の「到達度」32%と84%の大きな格差をもたらしているのが、中央館以外の図書館のあり方によること(分館網の未整備・その必要性)を、一層明確に示しています。 分館は中央館に比べると、はるかに小さなスペースですが、開架図書の冊数や新館購入冊数がより少なくても、それが身近にあって、いつでも利用でき、読みたい本や探している本の相談に対応する司書がいれば、貸出しは勿論、予約の利用が高まることを町田市の実績が示しています。 一人ひとりの利用者の求める資料を確実に提供し、市民の「なんでも」を保障する予約サービスは、「貸出し」サービスの根幹をなすものですが、その「予約サービス」は分館において一層、その役割、効果が発揮されることを示していると思います。豊田市の2%に対し、町田市では分館での利用が72%を占めているのですから。実数をみても、町田市の 分館は豊田市の中央館の2.6倍、サービスポイントの18倍の件数になっています。それは、 豊田市においても、それぞれのサービスポイントで本来利用のある件数であるといえると思います。 「図書館間借り受け」について 竹内 それでは「図書館間借り受け」について、あまり聞かない言葉ですが。 才津原 「図書館間借り受け」というのは、図書館にリクエストされた本のうち、図書館に未所蔵で、その本が絶版や品切れ等の理由で購入できない場合、その本を所蔵している図書館(国立国会図書館や、県の内外の公立図書館;図書館によっては、大学図書館や研究機関等)から相互貸借で借り受けることです。リクエスト・サービスに欠かせないものです。 豊田市の「図書館間借り受け件数」は1,695点で、町田市の10,969点の15%でした。 「予約件数の到達度の比較」(豊田市32%÷町田市84%×100=38%)よりさらに低い、町田市とは一桁違うきわめて低い数値になっています。このことは、「図書館にない本でも、 何でも」利用できるリクエスト・サービスが、市民にまだ広く伝わっていないのではないか、また図書館がそれを図書館の基本的な仕事としてとらえ、館長、職員が図書館の指針として一体となってとりくんでいるだろうかという疑問を抱かせる「借り受け件数」であるように思います。 竹内 以上で「図書館間借り受け」について話していただきましたが、他には。 才津原 まことに申し訳ないことですが先に「竹内悊さんからの贈りもの」を初稿から引用しましたが、初稿のさいごに、豊田市の皆さんにお伝えしたいと考えていたことを記していたのを思いだしました。再び初稿のさいごの章(「8.さいごに」)を引用させてください。 【以下、初稿からの引用です】 8.さいごに ⊡現状を知ることから  豊田市の図書館のこれからを考える時、まず知りたいのは、豊田市の小学校区ごとの貸出密度です。小学校区ごとの、市民一人当たり年間貸出点数です。本来、この指数は豊田市の図書館サ-ビスの「どこでも」「だれでも」がどうなっているかを示すもっとも基本的な指標であり毎年、図書館が作成している各年度の「事業概要」(図書館によっては、「年報」「要覧」「図書館の概要」などと表記)で、利用の実態を把握する基本的な統計として作成、公表されるべきものだと考えます。糸島市では、例年の『糸島市立図書館の概要』には記載されていないため、毎年教育委員会に請求して、その数値をもとに、糸島市の地図に小学校区ごとに貸出密度の数値を書きこんでいます。結果は、校区による利用度の大きな格差が一目瞭然にたち現れるものとなりました。そうして今、取り組んでいるのは、この利用の大きな格差の実態を、市民と行政に目に見える形で提示していくことです。現状を知ることから、市民として今、何をなすべきかがたち現れてくるように思います。     【資料資料 Ⅷ 「いとしま としょかんしんぶん」No.1 ⅷ(1)~(4)】  その一つが『望ましい基準』を活用した取り組みです。これまで述べてきたように、図書館法制定後50年経った2001年に公示され、2012年に改正された『望ましい基準』は「数値目標」を定めず、公示されてから18年間経つ中で、必ずしも各地の図書館づくりの中で大きな力となったとは言えない“眠れる基準”とも言える現状があります。しかしながら伊万里市民図書館のように、基準にこめられた考え方を自らのものとし、伊万里市の図書館の現状と課題をふまえて伊万里市民図書館の目標を計画年次とともに策定した取り組みは、豊田市や糸島市の図書館が直面している、市民の身近に図書館がないあり方を変えて、市民“一人ひとり、そしてみんなの図書館”としていくための範となる手立てを示しているように考えます。 とりわけ資料9『望ましい基準』の2項目(1.総則 「設置の基本」、2.公立図書館;管理運営)は重要な規定で、この規定に則った図書館の取り組みを、市民として市に求めることが肝要です。 ・ 図書館設置の基本は、住民の生活圏、利用圏を考慮して、分館、移動図書館による全域サ-ビス網の整備に努めること。 ・ 基本的運営方針の策定・公表 ・ 運営方針に則った図書館サービス、運営に関する適切な指標の選定と目標の設定。 事業年度ごとの事業計画の策定と公表 ・ 基本的運営方針並びに指標と目標及び事業計画の策定に当たっては、利用者及び住民の要望並びに社会の要請に十分留意すること。 ・ 運営の状況に関する点検及び評価等 また、「館長」については  ・2001(平成13)年の「望ましい基準」では、「市町村立図書館」の項目の中で、  (8)職員 ① 館長は、図書館の管理運営に必要な知識・経験を有し、図書館の役および任務を自覚して、図書館機能を充分発揮させられるよう不断に努めるものとする。 ② 館長となるものは、司書となる資格を有する者が望ましい ・2012(平成24)年12月19日、告示された「望ましい基準」では 4. 職員  (一)職員の配置等 ① 市町村教育委員会は、市町村図書館の館長として、その職責に,かんがみ、図書館サービスその他の図書館の運営及び行政に必要な知識・経験とともに、司書となる資格を有する者を任命することが望ましい。 【以上で引用終り】 となっています。その職責とは、「図書館サービスの最高の責任者」であることをふまえて、館長の配置をすることが、要のことです。館長と職員の配置の問題は、指定管理者制度導入の要の問題で、この「望ましい基準」をしっかり活用していくことが大切だと思います。 なお、すでにご覧になっているかもしれませんが、『図書館の設置及び運営上の望ましい基準 活用の手引き』(日本図書館協会 2014)は、役に立つ冊子だと思います。まだご覧になっていない場合は、図書館で予約、リクエストを。                           指定管理者制度について 竹内 いよいよさいごのお話、指定管理者の問題についてですね。 2016年2月、市長の施政方針で「豊田市中央図書館への指定管理者制度の導入準備を開始する」という発表を突然知らされた市民は、2016年4月に〈豊田市の図書館を考える市民の会〉を発足して、署名活動や指定管理について学ぶ学習会や講演会、市議会への請願書の提出、そして市議会議員や教育委員に手紙をだすなど、導入計画の凍結・再検討を求めて活動してきましたが、2017年に指定管理者が導入され、今日に至っています。 今回のインタビューのさいごのテーマになりますが、このことについて。 才津原 豊田市では2017年度から、市民のみなさんの反対にも関わらず、指定管理者が導入されているのですね。指定管理者制度の何が問題かについては、多くの方がその問題点を指摘されていますが、私は2点にしぼってお話したいと思います。 私が考えています指定管理者制度の問題点を次にあげたいと思います。 1. 雇用の形態  指定管理者の図書館では、おおむね5年ごとの契約期間になっています。そこで働いている職員は5年たった時、続けて働くことができるかどうかまったくわからないわけです。 指定管理を受託した会社は営利企業です。市から支払われる委託料のうち、人件費をのぞく施設の維持管理費を含めた物件費は、直営であろうと、民間の指定管理であろうと、多く変わるものではありません。指定管理者の会社が収益を得るのは、おおむね人件費として支払われた委託料から得るほかない仕組み(構造)だと考えられます。そこで市が算定した指定管理者の図書館で働く職員の給与は市の正規職員より低い額になっていることは間違いありませんが、その低額になった額から、受託会社が一定の金額をとり、その削減されたものが職員の給料となっていると思われます。ここでは、2回にわたる給与の減額、削減があると考えられます。1度目は市による、2度目は受託会社による。 こうした労働条件の下でも、その仕事を選ぶ理由の主たるものは、応募する人の多くが運営の形態がどうであれ、図書館で働くことに喜びややりがいを持たれているからではないかと思います。指定管理者制度は、そうした人たちの思いに乗っかったしくみだと思います。 ただ、この制度だと、5年先に継続して働ける保障はありませんし、先の先までの保障はなく、仮にたまたま1,2回継続して働けたとしても、10年先15年先に、例えば家族をもっても家族を養うことができる給与や労働条件が保障されるわけではなく、一生の仕事として継続してやっていくにはとても厳しい状況であり制度であると考えられます。実際的には2回、3回と、10年、15年と働き続けることのできる人が少ない職場になると考えられます。 図書館で働く専門職員としての司書が、司書としての力を身につけることができるのは、日々資料と利用者と、地域と社会を知る継続的な学びと仕事(経験)の蓄積を通してです。ある図書館が利用者にとって、信頼できる魅力的な図書館であるかどうかは、司書を核とした職員の働きにかかっています。指定管理者制度は職員が継続的に働くことを、実質的にさせないしくみであり制度です。1人ひとりの職員の力、職員集団の力を育て続けることを許さないしくみ。これは納税者である市民として、大切な税金を有効に使わない、生きたお金の使い方ではないと言うほかありません。 福岡市で新しく開館した分館の1つが指定管理者の図書館となり、先日ようやく見学をしてきました。図書館の入り口には、利用者の声に対する、図書館からの回答がすぐに目に つくようにおかれていて、一つ一つの市民の声にていねいで、温かな回答が記されていました。館内をみても司書の方たちの、積極的な楽しいとりくみが随所にあり、その心のこもった利用者との応対に心打たれるものがありました。私は福岡市民ではありませんが、 彼女たち(すべて女性の職員であったと思います。)の働きぶりをみるにつけ、1市民であれば、彼女たちの日々の経験の蓄積が、市民にとって役立つ力となるように、何ができるかを考えていかねばと思ったことでした。私は福岡市に隣接した糸島市に住んでいますが 人口150万人をこえる大都市である福岡市の図書館の在りようは、糸島市の図書館の在りようと無縁ではありません。数年前から福岡市民の人たちと“「図書館を楽しむ」市民ネットワーク・福岡”の活動を始めて、「指定管理者制度の問題」と向き合っているところです。 2.図書館に指定管理者を導入することは、今、その図書館が直面している図書館の課題を置き去りにして、現在ある図書館だけのサービスで良いとするやり方であるということです。 図書館は市民が必要とする情報や資料の提供を通して、すべての市民の生涯にわたる自己学習を保障する機関です。このため市民が「いつでも」「どこでも」「だれでも」「なんでも」利用できる「システムとしての図書館」づくりが、どの地域にあっても図書館の目指すところであり、行政の責務ですが、とりわけ「どこでも」は全国の中学校区設置率が34%(2017年度)であることにうかがわれるように、日本の公立図書館では、そこへのはるかな途上にあります。豊田市の図書館においては、広大な市域に市立図書館が1館しかなく、図書館網の整備は喫緊の課題です。図書館が身近にないため、日常的に図書館を利用できない多くの市民がいるからです。これに取り組むには、まず現状をしっかりとらえ、教育委員会はもとより市の力を結集しての計画的な取り組みが欠かせません。指定管理者の導入は、豊田市の図書館が直面している最大の課題から目をそらし、その問題に市として関わらないという選択で、すべての市民に自己学習の場と機会を保障する行政の重大な責務の放棄ともいえるものだと思います。 豊田市では図書館管理課はありますが、現場にはおかれておらず、指定管理者の図書館は、市の中に図書館のことがわかり、豊田市の図書館の今とこれからを考える市の職員を育てず、持たないことになってしまいます。指定管理者の導入は、日々資料や利用者と接し、地域を歩き、市民と地域の課題を考え続ける現場を市の職員が失うことであると思います。図書館は今の世代の人だけではなく、次の世代の人に引き継いでいくものです。図書館で働く職員が一人ひとりの市民に役立つ図書館をめざして、誇りをもって力をつくせる図書館を手渡していかなければならないと思います。 さいごのさいごに はじめは意識していなかったことですが、初稿も、このインタビューも前川恒雄さんの足跡をたどりなおすことから始めています。そして今思わず知らず、前川さんの歩みのはじまり、その源流にやっとたどりついたのだろうかと感じています。最後に日野市立図書館が昭和40(1965)年9月21日に移動図書館「ひまわり号」で貸出し業務を開始して2年が経った時、2年間の業務の報告書を刊行しています。 『業務報告 昭和40・41年度』(日野市立図書館 昭和42年3月 非売品)から いくつかの言葉を紹介させていただきたいと思います。いささか長いのですが、私がこのインタビューの中でお話してきたことの要点が54年前に刊行された『業務報告』の中に、 しっかりと述べられているように思います。豊田市の図書館の今とこれからを考える手がかりがそこにあると思われるからです。 日野市を豊田市に適宜読みかえていただければと思います。 (以下抄録) 1 日野市立図書館の方針 日野市立図書館はどういう図書館か  日野市立図書館は日野市民の図書館である。日野市民の図書その他の資料に対する  要求を公的に保障する機関が市立図書館である。市民一人ひとりが 10冊20冊の図書をバラバラに買う代わりに、それを何万冊という蔵書をもつ図書館にまとめ、より効率のよい、より深いサービスを受けられるようにしたものが市立図書館なのである。健康保険制度が肉体の健康における社会保障であるように、精神や教養の面での社会保障が 図書館であるといえる。  また市立図書館は市民の知的欲求を資料の提供という形で支えている、自由で民主的な社会に欠くことのできない機関である。市民がそれぞれ自らを高め、自由な思考と 判断ができるようにならなければ、本当の民主主義の社会は実現しない。市民がこのような自己形成への道を歩むための資料を提供し、判断の材料を調えるのが図書館である。そうしてこれが市長のめざす、市民の手による市政の基礎となるものである。  図書館はその働きによって、今まで本に親しまなかった人を読書へ誘い、新しい未知の世界への扉を開けることができる。これは図書館が「読め読め運動」をして読書をおしうりすることではない。図書館が市民の身近に、豊富な魅力ある図書を揃えて、市民と密着した仕事をするならば、それだけで読書は野火のように広がるであろう。人間は本質的に知識を求めるものだからである。特に将来の日本を背負う児童・青少年に読書の習慣をつけ、人間形成の基礎を培うことは、図書館の最も重要な働きである。 日野市立図書館の運営方針 Ⅰ 貸出しの重視  図書館サービスにはいろいろな働きがある。図書の貸出し、レファレンス(調査研究を援助する仕事)、集会活動などである。日野市立図書館では、これらのサービスの中、図書の貸出しを最も基本的な、初歩的な業務であり、他のサービスの基礎であると考える。レファレンスは貸出しでは十分な解決にはならない調査研究をする利用者のためであるから、公共図書館として必ずしなければならない業務であるが、貸出しを不十分にしたままでレファレンスを行うと、レファレンスの内容が曲がってしまう恐れがある。集会活動や行事は、図書を市民に提供するためにあるのであって、行事そのものが目的ではない。  (略) 市民の図書館である以上、市民にはだれでも平等に図書を利用してもらうようにしなければならない。   (略) 図書館という以上は、市民の求める図書は“何でも”貸出すことができなければならない。これは大変困難な課題であるが公共図書館のアルファでありオメガである。この課題を果たすため、市民の読みたい本はリクエストしてもらい、あらゆる手段で入手し要望に応えている。現在入手不可能な図書は他の図書館から借りる例も多く、国立国会図書館の蔵書も当館を通じて利用することができるのである。また、市民の要求に最も合った図書が何であるか、どんな図書があるかを案内する「読書案内」も図書館の重要な働きである。 一方、当館では読書のおしつけはしない。求められない図書を配って回るようなことは 一切行わない。市民の自主的な判断で、自由な選択が行なわれるよう援助するのが図書館である。 日野市立図書館は現在、図書の貸出しに殆ど全力を挙げているが、これだけが図書館の業務だと思っているのではない。何もかもやろうとして小さな力を分散するよりも、まず最も重要な、そして将来のスプリングボードとなり得る仕事に集中すべきだと考えているのである。 Ⅱ 全域へのサービス  日野市内のどこに住んでいようと、同じように図書館を利用できなければ市立図書館とは言えない。買い物かごを下げ、げたばきで利用できる図書館であって、始めて「市民の図書館」と言えるのである。このためには市内の各所に分館や移動図書館の駐車場が必要になる。いずれにせよ、これらは簡易な施設であり、ここに大量の図書を用意しておくことはできない。しかし、この簡易な施設で市民のあらゆる要求に応えなければならない。この課題を解決する方法は、これらの分館や移動図書館が単独で働くのではなく、一つの組織の第一線のサービスポイントとして働くことである。水道の蛇口をひねれば貯水池から水が流れてくるように、分館や移動図書館の駐車場に図書が必要に応じて配分される態勢が必要なのである。 この組織と態勢が日野市立図書館であって、一つの建物が図書館ではない。 日野市立図書館の設置条例第二条に「図書館は中央図書館と分館によって構成される」とあるのは、このような組織としての図書館を想定したものである。 Ⅲ 資料が第一 図書館は、図書その他の資料によって市民の役に立つ業務をするのであるから、図書館にとって最も重要な要素は資料である。いくら立派な建物を建てようと、中に十分な資料がなければ、厚化粧をした栄養不良の娘のような図書館になり、市民の役には立ち得ない。日野市立図書館は、外観はたとえ悪くても本当に市民の役に立つ働きができる図書館でありたいと思っている。このためには、何よりもまず新鮮な図書をできるだけ豊富に揃えておくことが第一である。一に図書、二にも図書、そして三にも図書である。 図書館サービスの目標は「何でも、いつでも、どこでも、誰にでも」であると言われる。 日野市立図書館は、この目標を現実のものとするため、市民に本当に役に立つ図書館となるために働きたいと考えている。 以上 才津原 『業務報告』が刊行されて6年後の昭和48(1973)年に発行された、石井敦氏との共著『図書館の発見』は副書名が「市民の新しい権利」です。“新しい”とは、それまで、権利としての実態をもたなかったということだと思います。また「市民の権利」は市民一人一人が、その権利を自ら行使することで、その実体をもつものであり、その第一歩は日野市立図書館は日野市民の図書館である、〈豊田市立図書館は豊田市民の図書館である〉として、市民一人一人が市民の図書館に向けて歩みだすことから始まると、著者が市民に伝えている言葉であると思います。 竹内さん、ほんとうに長時間にわたってつきあっていただきありがとうございました。このように長い時間がかかってしまい、ほんとうにご迷惑をおかけしました。 考える市民の会の代表の杉本さん、事務局の篠田さんをはじめ、市民の会の皆さまによろしくお伝えください。 竹内 ほんとうに長時間お疲れ様でした。よくここまでたどりつけたと思います。ありがとうございました。 添付資料  〈Ⅰ〉大分県の図書館振興策について    5頁  〈Ⅱ〉調布市立図書館について       10頁  〈Ⅲ〉「大沢家庭文庫 50年記念誌」    9頁  〈Ⅳ〉「図書館サービスの望ましい基準と豊田市図書館の比較 2017(平成29)年度」  〈Ⅴ〉「基本的な指標の確認から」 (資料Ⅳの解説) 〈Ⅵ〉「都道府県別 設置率・中学校区設置率・貸出密度・登録率」2017(平成29)年度  〈Ⅶ〉「伊万里市民図書館の望ましい基準値(目標値)との比較」2016(平成28)年度)  〈Ⅷ〉「いとしま としょかんしんぶん」No.1 (1)~(4) 4頁     「編集・デザイン」の大松くみ子さんは、「としょかんのたね・二丈の会の名付け親であり、初代の世話役。 〈Ⅸ〉「糸島市立図書館のこれからについての提言」(1),(2) 2018.6.4 添付資料〈Ⅰ〉大分県の図書館振興策について。 大分県が県立図書館の新館開設準備にとりかかるさなか、「大分県公立図書館振興策検討委員会」が設置されたのは、大分県内の図書館員に働きかけて「ネットワーク研究会」を立ち上げ、何度も滋賀通いをしていた県立図書館員の尽力によるものではないかと思います。 大分県内の委員は大分県立図書館協議会会長西村武人氏、同協議会委員で別府大学助教授佐藤允昭氏、大分県立図書館長宮本高志氏の3名、そして前川委員長、渡部幹雄氏と才津原の6名でした。わずか3回の委員会でしたが、2回目の委員会での討議案を渡部さんと私の2人が担当することになり、ほぼ提案した案通りの報告書が作成されました。(「大分県公立図書館の振興策に関する報告書―豊の国一村一館への道」平成7年1月12日) これは、東京都や滋賀県の振興策に学ぶとともに、小規模自治体の極めて多い大分県の現状を踏まえて、小規模自治体により手厚いというか、小規模自治体に必要な助成をする内容となっていました。図書購入費と建築費の補助がその内容ですが、図書購入費の補助については、人口3万人以上の市町村と、3万人未満の市町村に分けて補助率を、人口のより少ない小規模自治体である3万人未満の自治体の方を高くしています。 この補助の内容は、東京都や滋賀県に学んで、その基準を一層高める内容としたものでしたので、その内容を具体的にお話しておきたいと思います。 ② 補助対象 図書購入費 ③ 補助率 1/2~1/5 ア. 人口3万人以上の市町村 ・ 新設から3年間   3分の1 ・ 4年から5年目   4分の1 ・ 6年目から10年目 5分の1 イ. 人口3万人未満の市町村 ・新設から3年間   2分の1 ・4年から5年目   3分の1 ・6年目から10年目 4分の1 ④ 補助限度額 なし ⑤ 補助期間  10年間 人口の少ない小規模の自治体には、より高い補助が必要であるという考え方、それを実際に数値で(補助率の相違)で表し規定とすることが要点だと思います。また、ここでも補助をうけるための条件、「補助条件」がもっとも大事なことで、「整備基準」を充たしていることをその条件としています。 肝心かなめの「整備基準」 補助を受けるための条件とは  この「整備基準」は、これまでに日本でつくられた「基準」のなかで、「開架冊数」「建物面積」「職員」について、もっとも高い基準となっています。 実際の「報告書」では、「別紙」として記載されているものですが「公立図書館の整備基準」の内容は6点あり、 1.開架蔵書冊数 40,000冊以上   (※滋賀県2万冊以上) 2.建物面積   延べ800㎡以上  (※滋賀県 600㎡以上)        3.専門職員数               人口3,000人未満 2人         3,000人以上  7,500人未満  3人           7,500人以上  30,000人未満 4人 30,000人以上  90,000人未満 4人に、3万人を超える人口7,500                 に1人を加える。        90,000万人以上12人に、90,000人を超える人口15,000人当たり1人                 を加える。        但し、この他に必要に応じ非専門職員を配置する。 4.年間購入冊数 最低 4,000冊以上          人口1,000人当り160冊以上          人口150,000以上においては25,000冊以上 5.雑誌購入タイトル数          人口25,000人未満        100誌以上            25,000人以上40,000人未満  150誌以上            40,000人以上         200誌以上 6.新聞購入数  人口25,000人未満        5紙以上            25,000人以上        10紙以上 上記の職員は専任、正規職員であること。 なお、CD、ビデオ、その他の視聴覚資料は、その利用がますます増大すると思われる。必要に応じて十分に準備しておく必要がある。 『報告書』の中から、いくつかの大事な点を 以上が整備基準の全文ですが、「報告書」の本文には、大切な「考え方」の提示と最も重要な補助の条件や「図書館設置に関する行政的援助」の方法が具体例をあげて書かれています。 「考え方」の提示の1つは、「2市町村立図書館に対する県の支援方策」 「a. 市町村立図書館振興の方針」に明確に示されています。 「図書館先進県は必ずしも設置率が高い県ではない。個々の図書館の水準が高い県である。 図書館振興を図るには、一つでも二つでも「これが図書館だ」といえる図書館を作り、それをモデルとして、住民に役立つ図書館を広げていくことが、結果として真の図書館振興につながるであろう。 図書館は、ある水準以上の条件を持たなければ利用は期待できず、経費が無駄になる。ある水準を超えると利用が爆発的に増え、経費が有効に生きていることが誰の目にもあきらかになる。図書館振興の目標はこの水準を全ての図書館が超えるようにあらゆる手段で誘導することである。」 そのための、肝心な「補助の条件」とは そのためには、県の財政的支援と、その補助の条件がきわめて重要です。先の文章の続きを読んでみます。 「b. 県の市町村に対する財政的支援 県は市町村がある水準以上の働きができる図書館を維持するため、一定の条件のもと、財政的支援をすべきである。これはまた、県の支援が無駄にならないための保障である。 ア. 補助の条件 (1) 地方公共団体が直接運営する、図書館法第2条に定める公立図書館であること。 (2) 図書館の館長は、図書館法題条に規定された司書となる資格を有する者であること。 (3) 図書館の建物延べ面積、職員数、年間購入冊数が、本報告別紙の基準に示した数以上であること。 イ.資料費補助 拡充による、新たな補助制度とする。   ウ.建設費補助      図書館の建設に当っては、「過疎地域等振興プロジェクト推進事業費補助金」の活用が望まれる。しかし、これによって図書館振興が不十分な場合は、図書館建設のための新たな補助制度が必要である。   ウ.その他の援助 移動図書館車の購入および書肆情報ネットワークに接続するためのコンピュータの設置に対し、有効な一定額を財政措置することが望まれる。  滋賀県での実践が生かされた行政的援助の実際  方法の例示 注目されるのは、滋賀県で力をつくして取り行われた行政的援助の実践が、具体的に取り こまれていることです。 C.図書館設置に関する行政的援助  県教育委員会は図書館設置を促進するため、さまざまな場で市町村に対しその施策の普及説明をはかるべきである。その方法を例示すれば、次のようなものがある。 (1) 年度当初の市町村教育委員会に対する施策説明会における説明。 (2) 市町村長、教育長、企画担当者などに対し、あたらしい図書館についての理解を を深めるための会合の開催。  (3)図書館振興あるいは設置の機運のある市町村に対し、県教育委員会の担当部課長、県立図書館長などによる個別の説得。 D.図書館の運営に関する援助  市町村立図書館の運営、あたらしいサービスの展開などについて、県立図書館の支援が必要である。この場合、あくまで市町村立図書館の主体的な立場を尊重し、それぞれの館に見合った援助を心がけるべきである。 そのために、県立図書館が市長村立図書館の実情を把握していることと、県立図書館協議会の活発な論議と活動があることが、必須の条件である。    〈 前川さんの声が聞こえてくるように思われます〉 【県立図書館は何をするところか】が明解に述べられているのは 3.県立図書館と市町村立図書館との連携、ネットワーク a. 県立図書館の基本的役割 県民が必要とする資料、情報を確実に提供するために、県内の公立図書館が連携し、緊密な協力体制のもとで、いずれの図書館をも通じて、どの図書館の資料をも入手できる ネットワークの構築が不可欠である。 特に県立図書館は、全県民が利用する全県民のための図書館であり、この目的は直接来館する人々に対するサービスだけでは達成されない。「第一線にあって、住民からの様々の図書館サービスに対する要求を受けとめている市町村立図書館からの求めに対し、積極的にこたえることにより、県立図書館は全県民にサービスすることが可能となる。県立図書館は、市町村立図書館への支援を通してのみ、設置の趣旨に適うサービスを提供することができるのである。」(「県立図書館の役割と実践」文部省 1994) (以下 略) しかし実際に実施された「大分県公立図書館整備費補助金交付要綱」では、  ②補助率  補助対象経費の1/2 ③補助限度額 10,000千円(単年度)  ④補助期間  3年間  (「報告書」では10年間)  ⑤補助事業の対象となる図書館は別表に掲げる整備基準を満たすものとする。 ※ 「報告書」の人口3万人以上,以下による補助率(1/2~1/5)の区別をやめ、一律に。 また、【報告書】の「整備基準」と比較すると、 1.「開架蔵書冊数 40,000以上」、「雑誌購入タイトル数」、「新聞購入紙数」の削除 2.「専門職員数」では「報告書」にあった「但し、この他に必要に応じ日専門職員を配置する。」を削除し、さらに、「報告書」の「上表の職員は、専任、正規職員であること。」を「専門職員とは、司書及び司書保の資格を有し、専任かつ正規の職員(館長を含まない。)をいう。」としている。 「館長」の規定の変更については、「報告書」で最も大切な、基本とした規定であったものが変更(削除)されたことになります。この「要綱」がこのようになった経緯は不明ですが、「報告書」がだされる前後の1995年4月から、苅田町から滋賀県能登川町に移り住んだ私には、しばらく大分県からの連絡もなく、かなりたって「要綱」の内容を知った頃、あわせて、「振興策検討委員会」の立ち上げと、大分県立図書館の新館準備の中心になっていたと思われる県の職員が図書館から異動になったことを知らされ、長いこと連絡がとれない状態が続きました。こうしたことに驚いた私は、滋賀県の図書館長や関西の図書館員の幾人かに、そのことを伝えるとともに、その年の秋に大分県で図書館の全国大会が開催されることになっていたので、その大会で平松大分県知事に、その状況を伝えるべく動きましたが、結果的には全国大会では「県の振興策を考える分科会」が開催できただけで、県知事に直接、声を伝えることはできませんでした。(分科会では、山口県周東町の山本哲生氏、塩見昇氏、才津原などが報告)    前川さんは、『未来の図書館のために』のなかで、次のように書いています。 「大分県の図書館振興策  大分県の平松守彦知事から、前川を呼んで県内の図書館振興策を作るようにとの指示があったとのことで、その委員会の委員長になった。委員に後に滋賀県の町立図書館長になった(澤田正春滋賀県立図書館長の推薦で)人が二人いた。この二人の強い意見で、相当 高い条件をクリアした市町村に補助するという政策を作った。この政策が功を奏したかどうか、よくわからない。」     (92頁) 前川さんの所にも、大分県からのしっかりした経過報告がされていなかったのではと思われます。 添付資料〈Ⅱ〉調布市立図書館について 調布市立図書館が開館の翌年の1967年から刊行してきた刊行物・資料のおびただしさと、その優れた内容に驚きます。どれもこれも紹介したいものがたくさんありますが、私自身が仰天した資料のいくつか。 〈1〉『数字で見る図書館活動』1974年 (以後毎年発行) 〈2〉『図書館運営の組織化―フローチャート』1974年   50数年前、調布の図書館をいきなり訪ねた時、『買い物かごをぶら下げて』創林社 1979)の著者である萩原祥三館長が対してくださった対応が心に刻まれています。この冊子はたしかその時にいただいた何冊もの貴重な資料の1冊で、“図書館では、このように仕事をするのか”と驚いたことがあります。萩原祥三とはどういう人か、まったく知らずにお会いしたのですが、そのとき何かたしかなものを手渡されていたことを今にして思います。 〈3〉『昭和50年度 事業計画書』1975   調布市立図書館における刊行物がなんであるか。なぜ延々と、力をつくしてつくられ続けてきているか。萩原祥三さんの言葉に繰り返し耳を傾けたい。今、図書館員であるヒト、一人ひとりの前におかれた言葉であるように思います。  「はじめに   事業計画書作成の意義               図書館長  萩原 祥三 昭和50年度一年の活動計画がこの小冊子によって明らかにされる筈である。読者(といっ ても我々は多くを期待できないが)が充分想像力をもっておられれば、この文書から調府 市という自治体における、図書館を中心とする住民の知的活動の一端が明らかにされると 思う。大部分の図書館ではこの種の文書を作っていないし、十年一日の如く、同じ作業の 繰り返しに終始している向が多い。情報社会といわれる今日尚、図書館が市民権を充分獲 得していない理由の一端が、この辺にも存在している。なぜ我々は文書によって我々の活 動を明記するのか。図書館という職場は、自らの仕事を計画化し、新しい分野を確立し、 それらの内容を具体化するために文書化するという手続きをとらない限り、本の貸借とい う単純行為は、全く駅における切符切りと選ぶ所はなくなる。駅における切符の効用は乗 降という乗客の行為で終る。乗客は空間移動によって満足を得られれば済む。切符の痕跡 は、売上高という金額に堆積されて、究極的には利潤という単純な一数字で表示される。 駅の切符販売が無意味というわけではない。それらの労働は勿論社会的効用をもつ。社会 的な効用という点では、図書館の本の貸借と径庭はないかも知れない。貨幣論的尺度にお いてはそうである。 然し、専門職と自らも誇りをもち、図書館という知的労働に従事する人たちは、この貨幣 論的効用を納得するであろうか。現代の図書館界では、とりわけ「専門職制度」が声高く 叫ばれている。叫ばれている割には、全く安易な、一種の労組的身分保障論のようなもの に終始し、真の専門家論が厳しく論議されない。この辺にもまた別な現代図書館の市民権 が認められない原因の一つがある。市民権を認めさせるのは主として図書館側の努力がも っとつみ重ねられなければならない筈である。近代市民革命の歴史をみても、決して安易 な途によって、近代市民は出現したわけではない。我々はもっともっと歴史を学ぶ必要が ありはしないか。 さて、もし図書館の職場が貨幣論的な労働価値で割り切れないものありとすれば、その価 値は内在的な日常の仕事の中に求められねばならないだろう。知的な価値をうむ労働とは いかなるものかを、専門職は身を以て実践しなければならない筈である。価値創造的な知 的労働がいかなるものかを、勿論単純に定義できるものではない。然し少なくともそこに 視点を据えて、かからなければ始めから問題にならない。 事業計画も外からみれば活字のつまった紙切れにすぎない。然しこれが専門職の実践とい う錬金術師の手にかかるとき、必ずや時代にかかれる光芒を放つ筈である。それが図書館 の事業というものである。 (目次) はじめに Ⅰ 基本方針 Ⅱ 整備事業計画     施設 蔵書(資料) 職員組織     事務改善 広報 視聴覚 Ⅲ 各館別事業計画     おはなし会  小学生読書会     中学生読書会 地域講演会 Ⅳ 講座 講演会等全市的事業 Ⅴ 市民の自主的サークル活動     読書会 ブック・クラブ Ⅵ 貸出制度 Ⅶ その他(資料) 以上 (以下に、そのいくつかを紹介) Ⅱの整備事業計画 1. 施設整備計画(・・・より、以下、同様に、一部紹介) (1) 調布市立図書館の概要と特色   昭和41(1966)年4月、調布市立図書館中央館が調布駅前に設置され、6月に   開館してから、今までに9館の図書館が開館した。   調布市では、移動図書館車を巡回させる方式ではなく、はじめから、市内の全ての地域に図書館(分館)を設置する、いわゆる“分館網方式”をとった。 人口2万人に一つの図書館 半径800mの円周内に一つの図書館 二つの小学校区に一つの図書館 という三原則を充たすように計画し、市民の日常生活圏内に、“買物籠を下げて気軽に行ける図書館”を作るように計画し、その実現をすすめてきた。 更に、市民の自主的な学習団体を積極的に援助、育成し、図書資料による調査と研究を更に集会室での集団討議にかけるという社会機能を活用するように努めてきた。これは自己教育としての生涯学習の実践と、新しい社会におけるコミュニティ形成を目指すものである。 今年度に若葉分館が開館することによって、一段とサービス地域が広がり、全市の80%(面積比)を網羅できることになる。 残る分館未設置地区は、染地地区と佐須地区の2か所のみとなり、この地区にも間もなく分館が設置されて、極めて近い将来“分館網システム”が完成することになる。そして、これらの分館網を有機的に結ぶ機能を有する本格的中央館(本館)の建設が期待されるのである。 (以下、建設計画、2館の分館と新中央館の面積等) Ⅲ 各館別事業 1.基本的考え方 “いつでも、どこでも、だれでも、気軽に利用できる図書館”を実現するには、 イ、 市内全地域に図書館(分館)を設置する。 ロ、 職員体制をととのえ、資質をたかめる。 ハ、 市民のあらゆる年齢階層が参加できる、良いプログラムを用意する。 以上の三点、つまり施設、指導者、事業があいまってより良い計画が継続的に実施されなければならない。 (以下、略) Ⅳ 全市的な事業 市民の学習意欲を誘発し、具体的学習活動の機会を提供する。 1. 講演会 (1) 中央講演会 日頃、接する機会のない各界の専門家を調布市に招き、講演会形式の事業を開催する。 今年度は、時局問題、経済問題、文化評論を含めて、現代世相とその流れを市民と共に考えるため、複数の講師よって開催する。 講師・期日等は、時期を追ってきめていく。 (2) 地域講演会 各小、中P・T・A,自治会とうの要請を速やかにとらえ、共催の型式でおこない、地域の文か活動をもりあげていく。 2. 講座 ひとつのテーマについて、学習を深めていくため、講座を開催する。 (1) 児童文学講座 〇今年度は、「赤い鳥」時代から「第二の赤い鳥」時代といわれる現代の創作童話・民話などの、児童文学の流れを学習し、理解を深める。 講座を系統的に行い、人と作品について、児童図書研究会、子どもの本を読む会、児童文学研究会へと発展させていく。 講師  大川悦生 大石真 前川康男 永井萌二 松谷みよ子 の各氏を予定 対象 一般市民 (2) 著者を囲む読書会 現代の文学作品を、よりよく理解するために、すぐれた著者と著書に触れ、作品のねらいや人生観について話し合い、読書のよろこびをあじわう。 期日  年間6回随時開催 対象  読書会会員、一般市民 講師  丸谷才一 臼井吉見 半村良 井上光晴 金達寿 の各氏の予定 3. 研究会 職員の資質の向上をはかるとともに、広く関係者の参加を求め、市民と職員によって、質の高い事業を系統立ててすすめるため、各研究会をもつ。(会の詳細は、略。名称のみ以下に) (1) おはなし研究会 (2) 児童図書研究会 (3) 近代文学研究会 4.その他  (以下、名称のみ、内容は略) (1) 文学散歩同好会 (2) 名画鑑賞会 (3) 子ども映画界 (4) 地域映画界 各・小中学校PTAおよび福祉施設(二葉学園・調布学園等)の要請にもとずき、共催し、 地域や施設に奉仕する。 地域団体の要請により随時おこなう。 地域団体と共催する。 Ⅴ 市民の自主的なサークル活動 1. 基本的な考え方   【「基本的な考え方」を明示すること・・肝心要のこと‼】 市民のさまざまな文化的要求を受けとめ、育てるために、次の事項の整備をする。 (1) 市内のどこの地域でも参加できるように、読書活動を広める。 (2) さまざまな思考や趣向に合わせた多種多様な活動を用意する。 (3) サークル本来のすがたである自主的運営をめざして、世話人を中心にして事業を実施し、サークルの育成をかかる。 (4) サークルそうごの情報交換を密にし、相互研修の場とするため、連絡会を定期的に開催しる。 (5) 各サークルの学習活動をささえるために、指導者の派遣(あっせん・紹介)や、 資料の提供等をおこなう。 (6) 自主的学習の成果をひとつにまとめ、地域コミュニティの育成をはかる。 (注)各分館の事業が、人間のライフ・サイクルに併せてプログラムを用意するのに対し、ここでは地域的広がりと、内容の多様化をめざしている。 2. ブック・クラブとは  市民が、それぞれの学習活動の成果のうえにたって、主体的に組織づくりをすすめ、やがて“学習住民運動”の中核となるための具体的方法として、現在図書館を中心に学習活動をしている人びとの連帯組織づくりをすすめる。 (1) 会則   この会は、日ごろ、図書館をりようしている者、あるいは図書館を活動の拠点としたサークルに参加している者が、大きなひとつの輪をつくり、おたがいを友としてはげましあいながら、みずからを戒め、高め、新しい地域社会を造ろうとするものであります。 名称   1.この会は“調布ブッククラブ#といいます。 事務局  2.この会の事務局は、調布市立図書館中央館内に置きます。 会員   3・この会の主旨に賛成し、クラブの活動に参加できる人はだれでも会員として加入できます。      4.会費は年間500円(連絡費)です。         但し、サークルの運営費は別に定めます。 (略) (私の目を引いたのは、) (2) 図書館とブック・クラブの関係   これらのサークルが図書館を中心に活動することについて、いろいろな考えがある。それを大別すると、   「図書館は、住民に対する資料の提供にとどまるべきである。」   (静止的機能)というものと、   「住民の図書館利用を積極的に援助し、各種の自主的教育活動を組織することによって、住民の組織づくりに協力すべきである。」(動態的機能)という意見の二つがある。 調布市立図書館は、後者の考え方のうえに立って組織づくりをすすめている。 この提案は、図書館の後援会などという考え方とはまったく次元の異なる、生活の上に立った新しい構想である。 市民が自からを取り戻す市民運動とは何を意味するのか、私たちの生活にとってどんな意味をもたらすのか、このことを市民が皆んなで考え合うときがきている。 その具体的な行動のひとつとして、図書館(行政)と平等な関係の市民組織をつくることによって、幅広い文化活動を市民自からが主体的におこない、言葉だけでなく、市民と図書館が一体となった図書館活動(自己教育)を推進することができる。 3. 読書会  当館が感慨事業の中で最も力をそそいでいるものは、地域読書会の育成であり、地域読書会に対する協力である。読書会じゃ、図書を課題として相互に話し合うことにより、自己の意見を確立し、人を理解していくことに目的がある。 調布市における読書会活動の現況は活発であり、成人の地域読書会は20団体以上ある。各サークルあたりおおむね10人~30人の参加者で、月1回ないし2回活動している。 4. 創作グループ  図書館を中心に、さまざまなサークルが誕生し、活動を継続している。なかでも、俳句短歌、詩、等の創作グループは、その数も多く歴史も永いことが大きな特色である。 図書館は情報の提供にとどまることなく、これらの自主的サークル活動に積極的に協力していく。これは地域文化の創造に対する図書館の実践的試みである。 ・ 句会(8)、短歌の会(4)、詩の会、SFを語る会、小説、随筆、詩などを創作し、同人誌で発表する会、絵画教室、野鳥、野草の会 【4】『調布市立図書館50年の歩み』平成30(2018)年3月刊行。 『調布市立図書館の歩み20年の歩み』を1987(昭和62)年に刊行し、以後5年ごとに、25、30、35、40,45、50年の歩み、とこれまで7冊を刊行しています。  手元に25年、30年、そして『50年の歩み』(平成30・2018;407頁)がありますが、400頁をこえる資料の厚みにではなく、実に豊かな内容に驚きます。 図書館の仕事とは何であるか、(全域サービス網、児童サービス、ハンディキャップサービスとは何か・・・)を一つひとつの膨大な実践の記録で生き生きと示しています。ぜひ手にしてほしい1冊です。それぞれ関心のあるテーマの章を読み合って、語りあうのものもいいと思います。図書館でリクエストを。 『50年の歩み』では、目次の前に、市長、教育長、図書館長、図書館協議会委員長、元図書館長の、5人が開館50周年によせての言葉があります。調布市立図書館の図書館網の基礎となった第1号の分館国領分館が誕生した時の、荻原祥三館長の言葉を、元館長の座間直壮(なおよし)氏が伝えています。 「我々は(中略)出発点において、ひどいハンディキャップを負わされて歩み始めなければならなかった、今だにこの初期の後遺症に苦しみつづけている。然し日本の図書館はどこでも乏しい予算と人員に悩まされつづけている。この劣悪な条件にもかかわらず、 我々は怯むことなく現状打開に努力しつづけなければ、図書館の未来の展望はひらけてこない。我々の実践活動は特別なことではなかった。中小レポートが願いを込めて示してくれた途をひとつひとつたどりつづけただけであった。今日では、貸出しも、次第に 建設されていった分館網によって延びてきたし、初期条件の中から作られたグループ活動は更に大きく発展した、多面的な活動を展開している。まだやらねばならぬこと、やりたいことは山積しているが、極めて限られた人員の許では思うに任せない。図書館活動は考えるよりも先に実行することが大切である。その実行した結果が、次の手段を教えてくれる。このことも私が中小レポートに学んだことである。」 (『図書館雑誌』1978年7月号 日本図書館協会) 分館建設 道半ばの時点で 初代館長 萩原祥三氏のことば 調布市では分館の8館目までを7年間でつくりあげています。8館目の若葉分館の開館に あたっての初代館長荻原祥三氏の言葉を、同じく元館長の座間氏が紹介しています。 (『調布市立図書館報』第48号)〔1975年4月、若葉分館児童室のみ開館、7月全面開館〕 「若葉分館が近く開館の運びとなった。感無量なものを憶える。調布市に図書館がはじめて出現した昭和41年(1966年)当時、おそらく今日の調布市の図書館の姿を想像し 得たものはないであろう。図書館網の整備においても、その活動の内容においても、図書館職員の情熱においても、我々は自負してよい地点を確立しえた。だれが今日の現状をつくりだしたのか。一口に言えば、時代の流れであり、歴史が主人公であろう。この歴史を築いたものの中に、勿論市長の行政官としての英断、市議会の進歩的な理解、図書館職員の努力も含まれる。と同時に歴史を造りあげようとする市民の意欲と行動を挙げなければならない。この力と流れは、市民の日常生活の中に融けて流れ込んでいるから、決して目に見える形では現れない。然しこの胎動を見つけることができなければ、民衆運動にかかわりをもち、民衆の中に形成される文化創造の芽をのばすことは不可能である。(略) 財政貧困の調布市において、我国の図書館界の後進性に挑戦し、その低い活動の常識を破り、(中略)到達点に達し得られたのは、蓋し、唯一つ、我々が、市民の為に奉仕し、文化百年の計を考え、市民のための、市民による、市民図書館像をもっていたから、成し得たことであろう。(略) 然し乍ら、我々の到達点は、実は欧米の進んだ図書館に比較する時、また、図書館のあるべき姿に照らす時、まだ、ほんの出発点にたったにすぎないのである。図書館として為さねばならぬ本格的な仕事には、何一つ満足に手をつけていないのである。幸い市民の深い理解、議会の温かい支持、市民の大きな期待と参加、加うるに未来に富んだ 熱心な職員を擁する調布図書館の未来は、困難な地方財政や様々な矛盾を超えて、未来が約束されていると信ずる。」 座間氏は、「むすびに」の中で、この50周年記念誌の原稿依頼を受けた時、座間氏としては初代館長の萩原祥三氏に執筆を依頼できればと考えたと記しています。初代館長は座間氏を含む職員の先頭に立って、今日の調布市立図書館の基礎を作り上げ、多くの歴史をつくり、現在もその思想と活動は脈々と引き継がれているからであると。 しかし、現在93歳という高齢のため、そのことはかなわず、座間氏が引き受けることにしたと。このため、調布市立図書館の創設期に絞って、その時々に萩原氏が自身の想いを書き残してきた多様な「ことば」を紹介しながら、座間氏の想いを綴ることにしたと。 そして、更に次のように記しています。 「萩原氏の「ことば」は、当時を知る貴重な記録であると同時に、現在の図書館を考えるうえで決して陳腐なものではなく、将来に向かって通用するものである。 50周年の節目を迎えた今、過去の記録を再度読み返し、現在の図書館の仕事や役割について考え、あらゆる場面で「図書館は何を為すべきか」を自らに問うことが図書館員(司書) の専門性ではなかろうか。改めて思う。」と。 ここには、先に紹介した3『昭和50年度 事業計画書』の中の「事業計画書作成の意義」で、萩原氏が記している「何故我々は文書によって我々の活動を明記するのか。」 それは、「自らの仕事を計画化し、新しい分野を確立し、それらの内容を具体化するために 文書化するという手続きをとる」のであると昭和50年、1975年に記された考え方が見事に継承されているのを見ることができるように思います。 〔座間氏の文章の末尾に、編者によると思われる、「萩原祥三氏は平成29年5月に逝去されました。」〕 「萩原祥三氏とはどんな人か」、その人と、行動の仕方がうかがわれるエピソードを『50年の歩み』の「コラム」から紹介したいと思います。 「調布市図書館の歩み」の章の「2.動き始めた分館網計画」のなかに3つ、掲載されているコラムのひとつ。 【コラム】 萩原館長の試み~「落書帖」に書かれた言葉~ 旧中央図書館が開館した当時は、「本を借りるところ」というよりは「学生の勉強部屋」というイメージが強く、2階の学生閲覧室はいつも満員の状態でした。本ではなく、場所しか利用しない学生への対策を検討した結果、“若者の主張の場”を提供することになり、昭和43年12月14日、2階ホールに「落書帖」という大判のノートを置きました。 「現在を見つめ、それを超えるもの このノートの扉に吐きたいものを書きなぐれ!  ペンでよし 鉛筆でよし マジックインクでよし それは諸君の武器でもある。  いや、人間は書くということを通じて、自己を表現し、 自己を変革してきた。  その書くという行為が、諸君の人間形成の基底に存在する。  どんなことを書いてもよい。ただし、自己を低める品格のない言葉は慎め。  人の悪口とか、図書館の悪口とかそんなものからは、互いに得るものはない。  自己を凝視しつづけ、自己のうちに、たまってくる、何ものかを吐き出せ。そこに諸君がある。そういうことに役立つのであれば、この一片のノートには、多くの学ぶべき言葉が積み重ねられてゆくだろう。  それは、われわれと諸君との貴重な共有財産となり、記念碑となってゆく。(原文ママ)    【当時の落書帖と、萩原氏の直筆の文字の写真を掲載】  ノートにはさまざまなことが綴られました。文字通りただの“落書き”もありますが、中には「三億円事件」に関する考察、学生運動に対する批判、東西冷戦についての意見など時代をかんじさせるものや、偉人の名言・格言や哲学的問い、青春とは、恋愛とは、・・・といった悩みまで、若者らしい生き生きとした言葉が溢れています。  落書帖を置いた2日後の業務日誌には、ある職員がこんなことを書いています。 「“落書帖”の記事より、現代の学生の考え方、学生像への我々の理解度、把握の点について話し合う。  図書館としての難しさを感ずる。時代の流れを把握し、時代を先見する眼をやしなうことの必要、館長の言われた“自由”についての勉強を感じた。  エーリッヒ・フロムの“自由からの逃走”をもう一度読んでみようと思う。」(原文ママ)  置いたきっかけは学生対策でしたが、利用者を知ることで、職員の奮起につながったようです。                                     (以上)   添付資料〈Ⅲ〉『大沢家庭文庫 50年記念誌』 ・発行日 2020年12月  ・代表者 栗山規子     〒181-0015 三鷹市大沢5-13-6 / 0422-31-5768 ・編集 栗山規子 牛久保ゆう子、大久保あや子、栗山比弓、山本紀子、倉田清子     (以下、「記念誌という」) この「記念誌」をここに紹介するのは 1. このたびのインタビューでは、まったく触れていない、しかし大切なテーマ、内容を示してくださるものであるため。 2.1960年代末に始まった住民による図書館づくり運動は「70年代を通じて全国的に  野火のように広がった」とされていますが、「その運動をすすめた主な担い手は「子どもと本の豊かな出会いを願う文庫の母親たちでした。」『大沢家庭文庫』は、まさにその運動がどのようなものであったかを生き生きと伝えてくれます。「基準」との関りでは、「仙台市にもっと図書館をつくる会」の『21世紀に向けた図書館構想』など、各地で図書館構想や図書館計画が運動の中で住民によって作られています。その中には「基準」という観点からも、参考になるものが多くあると考えられますが、これについては、「福岡の図書館を考える会」の事例を簡単に述べただけで、まったく触れていないことを、「記念誌」から、改めて知らされた次第であること。 3.「記念誌」を読むと、「文庫」とは、どんなものかが鮮やかに伝わってきます。そこに集う子どもも大人も、文庫での時間が一人ひとりの生活の一部になって、本と人、人と人との出会い、ふれ合いから生まれる「ぬくもり」「あたたかさ」(「手のひらのぬくもり、あたたかさ」)が、深い元気をみんなに手渡しています。 これから市民のだれもが行けるところに、市民の身近に、その地域の分館のあり方を考えていこうとするとき、『大沢家庭文庫 50年記念誌』は、「こんなところが近くにあれば」という分館の具体的なイメージを読者に強く深く喚起する一冊であると考えます。 4. このため、大沢家庭文庫の歩みと活動の実際をできるだけ詳しくお伝えしたいと考え、引用を含めて長い紹介となってしまいました。 大沢家庭文庫のはじまり   東京都の三多摩、三鷹市の南西端、野川沿いの緑多きところに、大沢家庭文庫がある。「春は色とりどりの花が、秋は野鳥や甘い柿の実が目も心も、時にはお腹も楽しませてくれます。」 栗山規子さんが、大沢家庭文庫を始めたのは1968年12月のことでした。近隣の日野市立図書館が開館(1965年)して3年後、隣の市の調布市立図書館が開館(1966年)して2年後のことでした。 アメリカとの戦争が終わって20年くらいの頃、栗山さんは大学を出て、小学校の教師になりました。「日本はすっかり焼け出され、子どもの本もようやく福音館の「こどものとも」や岩波の本が少しずつ出はじめた頃でした。」栗山さんは「少ない給料の中から本を買っては学校の本棚に並べていました。」「授業中に子どもたちによく読み聞かせをしていました。」「どんな本が子どもたちにとって楽しいのかを知ることもでき」ました。 結婚して長男が1963年に生れ、2年後に三鷹市大沢に家を建て、学校には遠いため行かれず、やめなければなりませんでした。1966年には長女が生まれ、自宅には「子どもの友だちが来て本を読むととても喜ばれました。」 「地域活動に積極的に関わっていた父の影響もありました。父は集会所に本を集め子ども達に読ませたいと提案し、自分でも子どもの本を買って寄贈していました。」その頃学生であった栗山さんは、「本を並べるだけではだめなのだ。手渡す人が大切なのだということを知ります。」 「母がとっていた『婦人の友』の1965年ころの記事の中に、坪田譲二氏の司会で文庫をしていらっしゃる方々の座談会を読み、文庫をやってみたいと思いました。準備も勉強もせずに、家の子どもの絵本を読んだり貸したりしていた延長として、自然発生的に始めてしまいました。」 「こどもといっしょになってひとつの絵本に読みひたる楽しみを味わっていくうちに、この子どもたちがもっと良い本を広く読んでいくようになってほしい・・・わが家の本を貸し出していこうかと考えるようになりました。そして1968年12月栗山宅の手持ちの本に市立図書館から団体貸し出しを受けて、文庫をはじめました。りんご箱に包み紙をはって本箱とし、四帖半の子ども部屋に並べての開始でした。」(「大沢家庭文庫25年のあゆみ」) こうして一つの家庭で始められた文庫がなぜ、どのように50年をこえて活動を続けてきたのだろう。 記念誌のページを開き「児童図書研究会東京支部ニュース」への寄稿(2000~2001)の「こどもと文庫」の栗山さんの文章や、「文庫のあゆみ」を記した『壁新聞』(1968年~1993年、子どもたちの手書きの絵が満載)、そして文庫連絡会『輪を広げる文庫活動』への1994年度から2018年度までの15年間、毎年1年間の文庫のようすを生き生きと知らせる活動の報告、さらには「卒業生からのメッセージと思い出のひとコマ」「50周年記念のお祝いの様子」(『大人たちの会』&『子どもたちの日』)、そしてさいごに目をみはる「文庫のみんながよんだ絵本・語ったおはなしなどの記録」(羽沢小学校の「おはなし会」より 2004~2018年度の文庫「記録ノート」より)をゆっくりみていくと、50年を超えた活動を支えたものがくっきりと姿を現してきます。  子どものときに、家の近くにこんな文庫があったら、 こんな居場所があったらどんなにいいだろう‼ こどもにとってはもちろん、大人にとっても。 文庫のある1日をのぞいてみると 「1995年度のあゆみ」より、この時の世話人の1人、福島頼子さんの報告。 「今文庫に来ている子は、幼稚園児から小学校3年生までが多く、本の貸出しや読み聞かせ、おはなし会などをしています。高学年になっても来てほしいという思いから、ながーいおはなしの日も始めました。でも、いつもイイコで聞いているばかりではありません。 けんかや取りっこも起こります。そんな中で「子どもの力」を感じることがあります。 ある日、迷路の本を園児二人と小学生二人、それに私の五人が借りたいということになりました。そこで車座になり順番を決めることにしました。「ジャンケン」「小さい順」「もうう読んだ人は最後」と、子どもたちから案がでました。その都度、「それでいい?」と聞くと、「ずるい!」「・・・?」など、なかなか全員が納得する方法が見つかりません。皆借りたいのです。一度は抱え込んで部屋を出ていった子が戻って来て、また話し合う内、「借りたい人!といった時に、一番早く手を挙げた人に貸す」というのに五人が賛成しました。そこで、そばにいた子に審判を頼んで、私が借りることになりました。(こういう事になると、張り切ってしまって。) ところが、年少のEちゃんが泣き出してしまいました。他の子が「もう決まったのだから」と言っても泣きやまず、「あたし帰る!」と言いだしました。私も一瞬どうしようかと思ったのですが、世話人の一人が、「じゃあ気を付けてね、さよなら。」と、すっきり言ってくれました。Eちゃんは、「文庫なんかもう来ない」と出ていくので、「また来てね、さよなら」と、私も言いました。Eちゃんは門の外でウロウロしていました。栗山さんが、「泣きながら帰ると危ないね」と話していると、子ども達は外へ飛び出して行き、「おばちゃん、その本を貸してあげて」と、戻ってきました。本を渡すとまた飛び出していき、部屋にいた子もみんな外へ。しばらくして、Eちゃんは本を抱えて戻って来て、「この本、貸して」と言ったので、一番手はEちゃんになりました。 「こうしたら?」と世話人達は何も言わなかったけれど、子ども達で解決していく力と、ほっておけない優しさを感じました。そして大人は見守っていくだけだなぁと。」 心にとびこんでくるエピソードがどのページからも (世話人の声に耳をすますと) 「金曜日の3時から5時・・・・・・・ “文庫”という空間に流れるこの2時間は子どもたちの心の中に、記憶の中に、どのように積み重なっているのでしょう・・・。おはなしを聞くときのワクワク感や絵本の頁をめくるときのドキドキ感は、本当に、ちいさな、ちいさな思いなのに、大人になってもしっかり覚えていたりするものです。そして、“文庫”は子どもたち一人一人が、自分のペースで本と友達になることができる不思議な力を持っているように思います。 昨年の12月20日、文庫では、少し早めのクリスマス会が開かれました。司会を担当した私は、子どもたちの斜め前に座って、絵本の読み聞かせやおはなし、人形劇などの出しものを見聞きしながら、ときどき、視線を子どもたちに向けることができました。そのおかげで、新米の“文庫のおばちゃん”である私は、やわらかな冬の陽射しにやさしく包まれた子どもたちが、だんだんと、おはなしの世界に引き込まれていくときのなんとも素敵なキラキラとした瞳に出会うことができ、逆に吸い込まれそうになって、圧倒されながらも、とても幸せな気持ちになれたのです。 そんなことを年明けの世話人会で話したとき、「そうなのよ・・・だから、やめられないのよ」と、口をそろえておっしゃられた語り手の方たちのその瞳もまた、キラキラと輝いていて、文庫の魅力の奥深さを改めて感じさせられました。 1週間のうちの“2時間”が、これからも子どもたちにとって、楽しいひとときであることを願いつつ、一人でも多くの子どもたちのあの“瞳”に出会えたらいいなと思います。   (「1996年度のあゆみ」より   山村知子さんお報告) どの報告にも、目が留まることしばし  少しだけの紹介です!(抜粋です)   (「1997年度のあゆみ」から 長谷川直子さんの報告) 《文庫は大繁盛》 遠路はるばる府中から通ってくる親子組も増え、栗山さん宅のリビングも隙間がなくなるほどにぎやかな文庫になる時もしばしば。子どもの顔と名前がなかなか覚えられない程です。 ① ・・近くに図書館もあるけれど、文庫へ行って本を借りよう・・・ ② ・・だれか人がいるから、文庫に行こう・・・ ③ ・・今日は、おはなしの日だから文庫へ行こう・・・ 子どもにとって、文庫に通う意味は様々だが、生活の一部になっているのでしょうね。(略) 親子4人で、文庫に通い始めて4年。私達家族にとっても、文庫は生活の一部になっています。本やおはなしとの出会い、色々な人との出会い、どれも貴重なものです。子どもたちも大きくなって来ると、いつまでいっしょに通えるか分かりませんが、・・・文庫のホッとする空間と、時間をなるべく長く、いっしょに持ちたいと思っています。 「2003年度のあゆみ」〈抜粋・・・栗山さんの報告〉 4月 大沢家庭文庫の活動に文部科学大臣賞受賞の方。  4月23日「子ども読書の日」に「子どもの読書活動優秀実戦団体表彰」 受賞に当り、栗山さんの言葉。 「長い間充実した活動を続けてこられたのは、こどもたちにエネルギーをもらい、周囲のみなさんや家族に支えられてきたおかげ。これからも文庫を通して、子どもたちの心に本への信頼と人への信頼を育て、ほんやおはなしの楽しい世界をわかちあっていけたらいいと思います。」 三鷹市の広報でも「大沢家庭文庫」35年間の活動に文部科学大臣賞として、紹介の記事。 「本のほかにもおはなしや工作・実験、野川での野鳥観察、闇鍋パーティーもある「大沢家庭文庫」は近所の子どもたちの大好きな場所となり、それから35年、毎週文庫の日になると子どもが集まり続けました。この間、世話人の「おばちゃん」として協力したお母さん方や地域の人は90人。中には学生のときに世話人をして後に図書館学を学び、現在ニュヨークで児童図書館員として活躍する方や、子ども時代に文庫に通い、母となり世話人の仲間に入った方、子育てを終え、今度はお孫さんを文庫に連れて再び世話人をしている方もいます。・・・」  (2003年5月18日号) 5月 突然の夫の入院手術。掃除だけして病院へ飛び出す私の後を、世話人さんたちがしっかり子どもたちとむきあってくれ、新入会者も多い月でした。 11月 最終日は庭で火を焚き、恒例の魔女鍋。50人余りの親子がおはなし会の後、魔女の    髪の毛や、目玉や脳みその入った熱々のスープで心もおなかもほかほかに。 年があけてⅠ月~3月 夫の病状が悪化。自宅で最期まで看取る決意をし、夫の「文庫は続けなさい」との言葉に励まされて、告別式の翌日休庫しただけで、3月19日の「卒業生を祝う会」までやり通すことができました。激動の一年でしたが、子どもたちの笑顔と文庫世話人の皆さんの後ろ盾があったからこそ、この一年を歩めたと感謝で胸を熱くしています。 三鷹市の広報で紹介されたニューヨークで児童図書館として活躍する人については「2004年度のあゆみ」で世話人の吉田知雅子さんが紹介。 「大沢家庭文庫(文庫のよさは手作りの味) 「36年前に栗山さんが大沢の地に文庫を開いて以来、たくさんの人が世話人として文庫のお手伝いをしてきました。文庫に来る子どもたちの平均年齢は年々低くなっていくのに、世話人たちの平均年齢は容赦なく高くなっていきます。今では、世話人ではなく「魔女たち」と呼ばれているとかいないとか。そんな歴代の世話人達の中に、現在、アメリカの公立図書館で司書をされている大橋暢子さんがいます。彼女はアメリカに渡ってずいぶんたちますが、日本に里帰りするたびに大沢家庭文庫に立ち寄ってくださいます。その彼女が「としょかん100号」に寄稿された文章の中で大沢家庭文庫にふれています。図書館員としての彼女の思いが伝わるとても素敵なものでしたので、その一部をここに紹介させていただきます。」 「公共図書館の児童図書館員としてもっとも基本は何かと思い返すと、それは子どもが本を読む喜びを見出す手伝いをすることです。私の場合、いつも心のよりどころになるのは、 大学生の時にお世話になった東京の三鷹市の栗山さんとお仲間の方々が今も続けていらっしゃる「大沢家庭文庫」です。地域に図書館施設の完備されていないところから生まれた家庭文庫運動かもしれませんが、テクノロジーが発達してちょっと「非人間的」になってきているところのある公共図書館の時代にも、図書館とは違った味、手作りがあります。子ども一人ひとりが物語や本を通して得るものはインフォメーションばかりではありません。昔ながらのストーリーテリングや読み聞かせを大切にしながら、テクノロジーを上手に使っていけるようになりたいものです。 (文:大橋暢子さん 「としょかん」100号より抜粋:【『ニューヨークスタテン島便り』大橋暢子、図書館施設研究所1996;初出季刊〈としょかん〉1993年2月~1996年5月】 時間を少しさかのぼると 小さな声をあげる発見が   「1994年度のあゆみ より」 栗山規子さんの報告 【古八幡での文庫】 家庭文庫には家庭の事情がつきものです。昨年我家を建て替えることになり、約9か月間古八幡の集会所を借りて文庫を開きました。一番近いアパートに移り住み、文庫の度に皆で本や事務用品を運びました。村外れの寄合所風の平屋で、空き地では子ども達がサッカーに歓声をあげ、しゃぼん玉大会や、折り染め遊びものびのびとできました。チマチマと本を読むだけでなく、異年齢集団でドーッと遊べてとてもよかったというのが世話人達の思いでした。それに中と外とに目配りが必要で、若い方も巻き込んでいつの間にか、文庫の協力者がふえていきました。ただ、子どもたちの関心が本から離れたように思えましたが、新鮮な目で本を見直しているように感じられるのです。 又、本を半年以上もしまいこんでおくのも惜しいので、24世帯のお宅に預かっていただき 各々のご家庭で利用したり、ミニ文庫をして頂いたのも思いがけないプラスでした。私にとっては、この一大事業をどう乗り切るか頭の痛いことでしたが、すんでみると多くの方の知恵と力を感じ、これこそ「文庫の力」なのだと感激で胸が熱くなるのでした。 《目を瞠った、小さな報告》 【堀田美代子さんのこと】 「この変則的な時期に、元図書館情報大学副学長竹内先生のご紹介で、掘田さんが毎週文庫に来られました。彼女は日系3世のアメリカ人で、文庫をテーマに博士論文を書こうという方です。児童図書館員としての経験も長い方で、本場の英語で絵本を読んで下さり、大人も子どもも美しいリズムに酔いしれました。紙芝居や自作のパネルシアターもして下さり、控えめながら折にふれて見えるプロの姿勢に、世話人達は学ぶところ大でした。秋には講演をお願いして、ご自身の読書歴やアメリカと日本の図書館の違いを語っていただき、深い印象を残されました。 【卒業生を送るおはなし会と茶和会】 「今年の六年生たちは随分大勢でよく文庫に来た子達です。四年五年とお泊り会を計画しやりとげる力もあり、彼らの卒業を祝いたいおばちゃん達は、3月のおはなし会への招待状を出しました。当日国分寺に引っ越したJ君も含めて17名が集まり、小さい子達と共にお話を楽しみ、世話人達手作りのおやつを囲んで思い出話に花が咲きました。お泊り会でのきもだめし、本の楽しさを知った思い出の一冊等 話がつきませんでした。 人と人とのふれ合いのぬくもりに支えられ励まされ、この一年も過ぎていきました。」 そうして、“図書館”との出会い   ―文庫とは何か、図書館とは何かを考え続けて― 【大沢コミュニティセンター建設をきっかけに】   1999年9月16日三鷹市文庫連絡会講習会での講演記録より 「1973年大沢に三鷹市第1号のコミュニティセンターができることになり、どんな施設を望むか住民が考える研究会が、行政主導で組織されました。図書館ができると聞いた私は、素晴らしい図書館を夢見て、図書分科会に加わりました。三番目の子どもがまだ1才でしたのに、なぜか会のまとめ役となり当時三多摩に次々と建設された新しい理念に基づいた図書館を見学してまわり、話し合っては記録をまとめ、市との交渉にあたりました。そこで文庫5年目にして改めて文庫とは何か、図書館とは何かを考えるきっかけを与えられました。  当時住民自治を目指して、住民協議会が施設の管理運営をするという方式は、日本中の脚光をあびましたが、図書館とは何かを学べば学ほど、専門性が必要な図書館は、住民自治で住民がやるものではないと解りました。 当時の館長さんは大変良く解った方で力になっていただきましたが、コミュニティ対策担当の方々に解っていただくには、私の言葉も力も足りませんでした。  1974年いよいよオープンの頃、コミュニティ対策本部室長に呼ばれ、文庫として図書室に入って欲しいといわれましたが、図書館分館にしたい思いは断ち難く、お断りしました。 けれども住民としてできる範囲で協力したいと思い、日野市の図書館長〔注:前川恒雄さんですね〕に聞いた図書館友の会をまねて、図書室友の会と銘打って大沢地域のお仲間と一緒にさまざまな活動をしました。  この年三鷹の文庫活動をする人たちで文庫連を発足したときも、私の心の底にはようやく図書館とは何かを解り合える場ができるという思いがありました。」 【図書館をめぐる人たちとの出会い】 1972年三鷹図書館主催の講座で、文庫の話をしてくださった日本親子読書センター代表の斎藤尚吾先生と出会い、早速高尾山で開かれた親子読書研究集会に出向き、その後何年間も図書館問題の分科会で、図書館界のリーダー格の先生方や、館長さん達と膝を合わせて意見を交換する幸いを得ました。そこで日本の図書館界を新しい方向へリードする方達が、名もない文庫のおばさん達を対等に扱ってくださる謙虚さに感動しました。また、戦後の民主主義の成果でしょうか、各地で図書館運動に情熱を注ぐ文庫のおばさんと呼ばれる人達の底力にも圧倒されました。その後、文庫連の図書館の勉強会に、図書館界の色々な方々をお招きして、図書館とは何かを学ぶことができました。 図書館とは、さまざまな情報、知識、文化を誰もが平等に得ることができる場であり、その図書館があってこそ、民主主義も、地方自治も育ち、根付くと私は思います。本を読むことは、自分の頭で考えることであり、判断力を持つことで、それは民主主義の土台です。 本を読まない社会、読めない社会にしてはいけないと思うのです。 【文庫連の図書館運動】 1975年清水正三先生の「明日の図書館を考える」という講演をお願いしました。文庫連としては、新しい図書館のイメージを(三鷹市の)行政トップの方々や議員さん、行政委員さん達に聞いてもらいたいと、あちこちに案内を出しました。その時きてくださった社会教育委員会の委員長から「図書館五か年計画を考えているところだから意見を出すように」言われました。私はそれまで繰り返し読んでいた石井敦・前川恒雄著『図書館の発見』をヒントに三鷹図書館の将来像を急いでまとめ、文庫連の皆で話し合って、長文の要望書を提出しました。  このことを皮切りに「文庫への市費助成の請願運動」をはじめ、「学校図書館に人を」の運動に至るまで、文庫連は声をあげ続けてきました。 ―どんな文庫にしたいのか― こうして外での活動は広がるばかりで子育ては勿論、文庫も手抜きだらけでした。まず子どもの本を読む時間がありません。本の情報は、もっぱら我が子と文庫の子に頼っていました。とにかく文庫の時間に息せききって帰ってきてそこにいるだけでした。けれども、文庫は分かち合う関係でありたいお願いました。  大人も子どもも世話人仲間も、教える側、教えられる側という関係をつくらない。先生はいらないと思っています。もちろん、先生と呼ばれる文庫もあっていいのです。私は「おばちゃん」と呼ばれたいと思うだけです。〔注:「メダカの学校;だーれが生徒か、先生か・・・」〕  文庫には宗教と政治を持ちこまないというのも鉄則としてきました。  文庫は私の道楽だから夫の稼ぎでなく、せめて姿勢だけでも私の稼ぎでやりたいと思ってずっとアルバイトを続けていました。  始めた当初は、文庫の事務的なことは私がやって、他の世話人さん達には楽しんでもらおうと思い決めていたのですが、最近体力的にその通りにできなくなってきました。世話人さん達に助けられてかろうじて続けています。今までに80人あまりの世話人の方達がかかわってくださいました。なかには子どもの時文庫に通い二児の母となった今、大活躍の方もいます。ICUの学生だった時に来てくれるようになり、就職しても毎週文庫に通い続けこどもたちに慕われ、その後司書資格を取りアメリカ大学院へ留学し、今ニューヨー ク図書館のスタテン島分館で働いている方もいます。大勢の方達に支えられてきた幸せを思います。(略・おはなし会について)                 (以上) 添付資料Ⅳ 「図書館サービスの望ましい指標と豊田市図書館の比較」 添付資料Ⅴ 「 基本的な指標の確認から、2017(平成29)年度でみると(豊田市と町田市)」 (「資料Ⅳ」の解説) ※ 参照;(資料2)『図書館サ-ビスの望ましい指標と豊田市図書館の比較』2017年度 ※『比較表』は、1「人口」から25「中学校区設置率」まで、25の指標で作成しています。 1の「人口」と(統計数値が不明な14「新聞年間購入種数」の2つの指標を除いた23の 指標のうち、豊田市が「望ましい指標(基準値)」をこえているのが10。(そのうちの1つは、「委託・派遣職員数」235%、「専任職員」0) 1.人口  (豊田市42万4千人):(町田市42万9千人)でほぼ同規模。 2.図書館数(豊田市1館と32のサ-ビスポイント):(町田市8館、自動車図書館3台、2つのサ-ビスポイントで、図書館数や自動車図書館で大きな違いがみられます。 3.職員  (豊田市、委託職員84):(町田市;専任職員58〈うち司書25〉;非常勤・臨時127)と図書館数と職員体制で、格段の違いがあります。 4.貸出点数(豊田市315万3千点、うち32のサービスポイントは171万5千点で、全体の54%の貸出):(町田市378万千点)で62万7千点、町田市が上回っています。 5.貸出密度(市民一人当たり貸出点数)は(豊田市7.4で、「望ましい指標8.9」に対する到達度は88%):(町田市8.8;到達度99%)で、貸出では町田市が豊田市の113%の指数となっています。 6.予約件数(豊田市21万8,700;到達度29%):(町田市63万4,000;到達度84%) 町田市は豊田市の2.8倍の件数で41万5,300上回っており格差が際立っています。 7.図書館費 (豊田市の5億5,571万9千円;到達度91):(町田市の7億5,200万6千円;到達度124、町田市の図書館費には職員の人件費は含まれていませんので、これを含めると到達度は、更に高くなります。町田市の人件費を含めていない図書館費でも、豊田市の1.35倍の図書館費です。 8.資料費(予算額)では、(豊田市9,083万円;うち32のサービスポイント3,264 万円で資料費全体の36%;到達度123%):(町田市4,581万6千円;到達度62%)と豊田市が4,456万4千円、上回る予算額、到達度は、町田市の2倍。 9.市民一人当たり資料費は、(豊田市214.2円で、「望ましい指標188.2円」の到達度114%):(町田市106.8円、到達度57%)と町田市の1,9倍。 10.中学校区設置率(豊田市4%、図書館1、中学校28):(町田市40%、図8、中学校20) ※全体的にいえば、豊田市は資料費、年間購入冊数は多いが、利用度が低い。 ・2017年度の豊田市の比較表を見る時には、1「施設」(No.1~4),2「職員」(No.5~9), 3「資料」(No.10~14)、4「利用者」(『比較表』のNo.15~17)、の図書館を構成する4つの要素と、これらの活動を支える税金による経費、5「図書館費」(予算No.19~24 )という5つの要素に分けてみていただきたい。 添付資料Ⅵ 「都道府県別 設置率・中学校区設置率・貸出密度・登録率 添付資料Ⅶ 「伊万里市民図書館の望ましい基準値(目標値)との比較」 添付資料Ⅷ―(1)  「いとしま としょかんしんぶん」(糸島の図書館を考える市民の会) 1頁 Ⅷ―(2) Ⅷ―(3) Ⅷ―(4) 添付資料 Ⅸ―(1)                               2018年6月4日         糸島市立図書館のこれからについての提言 糸島市長 月形 祐二 様                                    糸島市の図書館を考える市民の会                                  松浦 里絵                                  梅川 萬智子                                  才津原 哲弘  1. 市内のどこに住んでいても、だれでも利用できる全域サービス計画の策定を。 ご回答では貸出密度(人口当たり貸出点数)の低い校区があることから、「まずは目標値である5.6冊を全ての校区でクリアすることが重要と考えており、今後とも子ども読書活動の充実や読書週間の定着に力を注いでいきたい。」とのことでした。「全ての校区で5.6冊をクリアすること」は、ほんとうにとりわけ重要なことだと考えます。  5.6冊をいつの時点でクリアするのか、目標達成年次を明示した取り組みが必須であると考えます。  児童へのサービス充実の取り組みは、言うまでもなく大切なことですが、貸出密度が、とりわけ低い主たる要因は、図書館が住民の生活圏から遠いことにあります。その最大の要因に焦点を当てた取り組みをしないと目指す効果は期待できないのではないでしょうか。子どもたちに読書をすすめようとしても、身近で借りることができなければ読むこともできません。  市会議員20名中、12名から回答をいただき、その内7名が、「政策的対応(実態を把握し計画をたてての対応)が必要」との回答でした。「どこに住んでいても」「だれでも」利用できるあり方は、図書館サービスの肝心要の大切なサービスであると考えますが、それを実現していくためには真剣な、力と知恵をつくしての取り組みが求められます。その第一歩が目標達成年次を市民の前に明らかにする取り組みだと考えます。また、計画策定に当たっては市民の声を聞く場を持っていただきたいと考えます。 2. 図書館サービスや図書館の運営に関する指標と目標を「目標基準例」を参考に、もっと積極的に取り入れること。「数値目標」については達成年次を明示して計画的に取り組むこと。    ご回答では、「現行のままでよい。「蔵書冊数」「貸出冊数」 図書館サービスの充実   を図っていく上では、現行の「蔵書冊数」「貸出冊数」「満足度」の推移の見極めが重要と考えている」でした。図書館の利用者にとって、資料(図書、雑誌、視聴覚資料)の最大の魅力である資料の新鮮度や多様さに係る、「図書年間購入点数」「雑誌購入タイトル数」「資料費」等は、とりわけ重要な指標で、これらは「蔵書計画」(年次計画)に基づいて計画的に収集していくことが重要で、これらがどうなっているかを知ることは、その図書館のサービスを評価する上で欠かせないものさしでもあります。    この指標を、2点と「満足度」だけとすることは、「サービスの向上を生み出す指標と目標」をなおざりにすることになるのではないでしょうか。    議員12名中、7名が「取り入れる」の回答でした。「指標、目標及び事業計画の策定に当たっては、利用者及び住民の要望並びに社会の要請に十分留意するものとする。」と『望ましい基準』で定められていますが、改めて『望ましい基準』に則った   対応を求めるものです。 3. 指標や目標を適切に選んで増やし図書館の計画を糸島市長期総合計画に入れるること。 ご回答は「その他( 総合計画では、蔵書冊数、貸出冊数、満足度という形で数値目標を掲げて図書館サービスの充実を図ることとしている)」でした。  図書館サービスを充実、向上させていくためには、職員計画や蔵書計画をたて、全域サービスの整備をしていくなど、財政措置を伴います。市民が求める資料の提供を通して、すべての市民の生涯にわたる自己学習を保障する図書館の役割の重要性に鑑み、長期計画の中に組みこんで計画的に取り組んでいくことが肝要だと考えます。 4. 学校図書館の図書費については、『学校図書館図書整備(等)5カ年計画』で交付されている総額、100%を少なくとも予算措置すること。  ご回答では「その他(学校図書館に求められる機能を考慮し、蔵書数のみでなく総合的に判断していく。)でした。  なんといっても、こどもの世界を豊かにする本があってこその図書館です。『5カ年計画』は29年4月から第5次にはいりましたが、この20年間、糸島地区の学校図書館の予算措置率は驚くばかりに低い状態が続きました。平成24年度からの6年間でみると交付額の総額82,983,000円に対し、糸島市が予算化したのは、30,452,000円で、 予算措置率は36.7%、29年度の交付額は1,726万円、うち予算計上額は508万2千円で、予算措置率は30%をきって、29.4%でした。子どもの本代というので、厳しい財政の中でも、200%を超える予算措置率の自治体が県内にある中で、20年間にわたって極めて低い予算措置が続いてきたことを考えれば、「少なくとも」100%の予算措置を という次第です。                           以上                                さいごに。  この度の公開質問の、第4問で、これまで糸島市では他館からの借用が、県内の図書館と国立国会図書館からに限られていたことについて。ご回答は②の「なんでも」の観点から、借りれるように、予算措置をする。」でした。待ちに待った嬉しい回答でした。早速、友人、知人に知らせました。 添付資料 Ⅸ―(2)「市長選挙・公開質問状に対する回答」2018.1.18      及び「添付資料」小学校区別貸出密度・図

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