2020年2月27日木曜日

山田稔さんの本の中で、中村哲さんに出会う  No.41

以前からいつか手にしたいと思っていた山田稔さんの本をようやく読み始める。
『もうろくの春 鶴見俊輔詩集』(2003年2月1日発行、手製本三百部)を出版の第1冊目として、京都で出版社を始めた”編集グループ〈SURE〉”(代表 北沢街子)は、出版直後にその本を注文して以来、私にとって興味深い本を次々と出版している。SUREから出版される本の中や、その出版目録に山田稔という名前を時折目にしていて、どんな文章を書く人か読んでみたいと思っていた。

読み始めたのは『山田稔自選集 1』(編集工房ノア 2019.7.7)、同書の著者紹介。

山田 稔(やまだ・みのる)
1930年北九州市門司区に生れる。京都大学でフランス語を教え、1994年に退官。
主要著書
『スカトロジア』(三洋文化新人賞)
『コーマルタン界隈』(芸術選奨文部大臣賞)
『ああ、そうかね』(日本エッセイスト・クラブ賞)
『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』
『八十二歳のガールフレンド』
『マビヨン通りの店』
『富士さんとわたし 手紙を読む』など。

翻訳書として
ロジェ・グルニエ『フラゴナールの婚約者』(日仏翻訳文学賞)
同『チェホフの感じ』
アルフォンス・アレー『悪戯の愉しみ』、『フランス短編傑作選』
シャルル=ルイ・フィリップ『小さな町で』
エミール・ゾラ『ナナ』など。

同書は、Ⅰ 『ああ、そうかね』より 一九九六年十月 京都新聞社、 Ⅱ 『あ・ぷろぽ』より 二〇〇三年六月 平凡社 Ⅲ その他、の3章からなる。Ⅰは著者が住む地元の地方紙、京都新聞(夕刊)に書かれたもの25編を収めている。Ⅱは最初の10編は平凡社の「平凡百科」の2002年1月から12月まで「あ・ぷろぽ」の通しの題で連載したものから選ばれている。残りは「現代のことば」および、ニューライフ社の月刊誌Health Tribune(ヘルス・トリビューン)に1998年3月より2001年1月まで「京都」の通しの題で連載されたもののうちから成る、これ以外に2編があり全部で35編。Ⅲ その他は8編で、各編の末尾に出典等が記載されている。

中村哲さんの名前をこの本の中に見ようとは思っていなかったので、アッと思いながらその一文を目にした。「ある日曜日のこと」と題された小文は次のように始まっている。

”小雨もよいの寒い朝だった。「家にこもっていたい怠けごころを奮い立たせて、近くのN女子大に出かけた。「ピースウォーク京都」主催・中村哲講演会「平和の井戸を掘る」
年の暮れの日曜日の朝、町はずれのこの会場まで、はたして何人の人が足を運ぶか。せいぜい五十人くらいか。
会場に近づくと、日ごろは閑静な界隈がふだんとちがう。人々が足速に大学正門へと向かっている。私の足も速まる。
予想は大きくはずれた。千五百席あるという大講堂は補助椅子まで満員で、私は上段近くにかろうじて空席を見つけることができた。”

「ピースウォーク京都」は2001年9月11日,ニューヨークの世界貿易センタービルに民間航空機が突入後、アフガニスタンへの「報復」攻撃が、現実のものになりそうな中で、そんな状況に

”いたたまれなくなった者が言い出して「殺さないで! 今こそ平和を」という思いを表すためにピースウォークを始めたのです。そのなかで、見知らぬ人同士が出会い、「ひとりの歩みから始めよう、借り物でない自分のことばで語り出そう」ということを確かめ合ってきました。9・11と「報復」暴力により、今まであえて見ようとしなかった事態があらわになり、一人ひとりの生が問われているのを初めて切実に感じました。無視し続けてきた自分たちこそ問題だろうと思いました。
中村哲さんんの話を聞きたい、という声は、ピースウォークを始めるとすぐ出てきました。”
(『中村哲さん講演録 平和の井戸を掘る アフガニスタンからの報告』ピースウォーク京都 2002年10月7日 初版第4刷より;初版第1刷発行は同年5月19日)

こうしてピースウォーク京都では中村哲さんを京都に迎えての最初の講演会を2001年12月9日にノートルダム女子大学ユニソン会館で開催し、翌年2002年5月に、上記の講演録を発行している。そして以後毎年、中村さんの講演会を開いてこられたようだ。
山田さんが出かけた、年の暮れの「ある日曜日」の中村さんの講演会は2002年12月にあったピースウォーク京都の2度目の講演会ではなかったかと思われる。ちなみに私が同大学での講演をお聞きしたのは2003年の3回目の講演会であったように思う。その時も1500席の会場は満席で、立ったまま中村さんの話に耳を傾ける人たちがいた。

山田さんの「ある日曜日」にもどろう。

”講演はスライドを使用しながら行われた。診療室とは名ばかりの小部屋。当初、二千数百名のハンセン病患者にたいし病床わずか十六。ガーゼの消毒液もなく、使用済みのものを金属容器につめこみ、オーヴントースターで熱して消毒した。キツネ色に焦げたのが消毒済みで、未消毒の白いのと区別した。”

文章を書き写していると、中村さんの声が聞こえ、その表情、眼差しが眼前に浮かんでくるように思われる。1984年5月、中村さんはパキスタンのペシャワール・ミッション病院に一人赴任し、

「その年末、家族を呼び寄せるべく帰国。85年1月、家族(夫人と2人の子ども)とともにペシャワール生活がはじまる。」(”寄稿 現地の人々と共に活動が続いていきますように;中村哲医師 夫人 中村尚子『ペシャワール会報』 号外 2019年12月25日)

「ソ連軍のアフガン侵攻のさなかであり、パキスタンへ逃れてきた難民中、数百名が一夜で凍死するという事件にも会う。診療を受けにくる者の過半は、アフガンからの難民であった。ハンセン病だけでなく、すべての患者に対応しなければならない。病院の設備はゼロ以下で、消毒の習慣さえなく、ガーゼの消毒は、オーブンで焼いて焦げめがついたものを使うところから出発した。医療の手ののびていない土地への関心は、アフガ二スタンに診療所をという方向へ中村医師を押しやる。
求められていながら、誰も行く医師のいない場所であれば、そこへゆく。なすべきことを誰もなさなければそれをやる。それがこの二十五年間ゆるぎない中村哲の流儀であり、たとえば三千メートル級の山岳地帯の小村を訪ねて難路をよじのぼり、はじめて馬にも乗った。
ウルドゥー語のほか、パシュトゥ語も習得して、現地の人たちのなかへ入りこんでゆく。
(『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る ―アフガンとの約束』中村哲・(聞き手)澤地久枝 岩波書店 2010)

ペシャワール・ミッション病院に赴任以後、7年間程、家族皆で過ごされ、長女の秋子さんが10歳になった頃、夫人と子どもたちは日本に帰国、中村さんは単身で日本と現地を行き来する生活が始まった。

・2001年9月11日 米国ニューヨークの世界貿易センタービルに2機の民間航空機が突入
・10月11日 ペシャワール会 「アフガンのいのち基金」(アフガンへの食糧配給計
 画)発表 
・10月13日 中村医師、国会衆院テロ対策特別委員会に参考人として出席
・10月20日 ペシャワールからの食糧輸送第1便が国境を越えアフガにスタン、ジャララバードに到着。(小麦トラック4台、食用油トラック2台。2830家族分。1家族10人当たりの配布量は小麦200キログラム、食用油16リットル)。2001年11月・当初の1家族3か月分を6週間分に変更。より多くの人々に配給するため。

・2001年11月3日 カブール陥落
・11月26日 中村医師、アフガン国内での大規模灌漑用水路の建設計画があることを明らかにする。
・2002年2月22日 「緑の大地・五か年計画」発表。(アフガン東部、長期的農村復興)
・2002年3月 食料配布事業終了。主、な結果。①配布地域・・カブール、ジャララバード、アチン、スピンガル、チャプラハールチャプ、ラールプール②食料配布した家族・・27339家族(1家族10人)③送付した小麦粉・・1884トン820㎏×94200袋)④同食用油167キロリットル(18キロリットル×9280缶に相当)※その後、PMSでは残余の食糧を緊急栄養パックとして1万パック作成し、栄養失調の子どもや妊産婦に配布した。

2003年3月19日 ダラエヌールにおいて灌漑用水路の起工式
3月20日 イラク戦争開始 12月13日、米英占領当局、サダム・フセインを拘束。
6月15日 水源確保事業の作業地が1千ヶ所を突破
【以上の年譜は『空爆と「復興」アフガン最前線報告』による。中村哲・ペシャワール会編 石風社 2004年5月】

再び、「ある日曜日のこと」より。

”アフガニスタンは農業と遊牧畜の国である。雨はめったに降らない。農業に不可欠の水は山岳地帯の雪によってまかなわれる。「金はなくても生きられるが、雪がなければ生きられぬ」。その生命の源の雪が年々減りつつある。地球温暖化の影響である。この旱魃の地に、医師が井戸を掘りつづける。
中村氏らの医療班は誰も行かない険しい山にまで足をのばす。”

”最後のスライドに、明るい笑顔をうかべた子供たちの姿が映った。どこの国の子供たちでもカメラに向かって見せる楽しげな表情。中村氏が言う。じつは悲惨な姿を撮ろうと思ったが、子供たちはみな明るいのです。
帰国して、日本人の方が暗い顔をしている、と感じた。持てるものを失う不安、おそれ。
アフガンの人たちにはそれがない。無一物の楽天性が顔にあらわれる。その最たるものが子供の顔だ。自分はアフガンの人たちに励まされた、中村氏はそう結んだ。”

山田さんはここで、35年前、1年間フランスで過ごして帰国したときのことを思い出す。

山田さんがフランスに行っていた、”わずか一年の間に日本人の人相が悪くなっていた。高度経済成長期の、金もうけに目のくらんだ人間の、とげとげしい殺気じみた目つき。それと、現在の不況に苛立つ人々の表情の暗さと、相通じるものがあるのではないか。”

講演会が終わり外に出ると、

”会場を出たところに、若い女性が胸にプラカードを抱くように持って立っていた。ひとり立つ姿が印象的だった。Kさん、かつての教え子で、今は大学院で研究中である。プラカードは、その日の午後のピースウォークへの参加を呼びかけていた。
午後三時半、厚着をして三条河原へ足を運んだ。数十人の人が集まって、冷たい川風のなかで集会を開いていた。呼びかけ人のKさんをはじめ何人かが喋った。何もせずにじっとしてはいられない。歩くことからでも始めよう、とKさんは言った。

先導者の後から三列になってぞろぞろと歩き始めた。河原町三条から南へ、仏光寺公園まで。何人かがマイクを持ち、それぞれの気持ちを街の人たちにうったえるほかは、シュプレヒコールもなく静かに、のろのろと歩いた。”

〈この歩き方、いいなと思う私がいる。その後の山田さんのそれも。そこそこで、それぞれの歩き方をと〉

”先頭でプラカードをかかげるKさんとはたちまちはぐれた。後ろの方から黙々とついて行った。ひとりで歩いている気分だった。
私が歩いても、アフガニスタンに投下されるアメリカの爆弾が一発でも減ることはない。情勢がすこしでも変わることはない。外の世界は変わらなくとも、しかしごくわずかに、ごく微妙に、私は変る。そうやって少しずつ変りながら、今日の、いまの私がある。”

心うれしい文章、コトバに出会った!







0 件のコメント:

コメントを投稿