ブックカフェ「ノドカフェ」に本の出前(風信子ヒアシンス文庫より)2020.2~3 |
手掘りの井戸の水を絶やさず、さらに深く掘り進むために
「ピースウォーク京都」の活動がどのようにして始まったかは、以下のように”講演録”の「はじめに」に書かれているが、その題目は「中村哲さん 京都で平和の井戸を掘る ピースウォーク京都」となっている。
9月11日の事件後、アフガニスタンへの「報復」攻撃が現実のものになりそうだと思われる中、京都市民の中からそんな状況に「いたたまれなくなった者が言い出して、”殺さないで!今こそ平和を”という思いを表わすためにピースウォークを始めた。」
その活動のなかで、見知らぬ人同士が出会い、「ひとりの歩みから始めよう、借り物でない自分のことばで語り出そう」ということを確かめ合ってきた。
(当時、その活動を始めたお一人にお聞きしたところでは、「女友だち3,4人で始めた」とのこと。中村さんの講演は、同じ会場で、3,4年前までほぼ毎年開催、中村さんが来られないときは、福元さんや現地で活動しているペシャワール会のメンバーによる講演があったという。また、ピースウォーク京都での出会いが、いまだに続いていて、とりわけ、福島での原発事故以降、それぞれの場で活動されているとのことだった。)
10月7日、米英軍がアフガ二スタンへの空爆を始めたなかで、食料輸送が困難になり、カブール市民が飢餓のふちに立たされる事態となり、PMS(ペシャワール会医療サービス)は、カブールにおいて食料配給を行うことを決定し、「アフガンいのちの基金」(5000トンの小麦等の配給を計画)を開始。
ピースウォークを始めるとすぐに、「中村さんの声を聞きたい」という声がでてきた。
こうして、そのころアフガニスタンの現状を伝え、「いのちの基金」への呼びかけのため日本全国を講演で駆け回り始めていた中村さんを京都市に招いての講演会が実現する。
講演会を主催したピースウォーク京都では、「中村さんの講演は、日本でわたしたちの心のなかに井戸を掘るという、もしかしたらアフガニスタンでの井戸掘りより大変な仕事だったかもしれませんけれど」と、中村さんの講演を受けとめ、「手掘りの井戸の水を絶やさないで、さらに深く掘り進むために、この講演録を作りました。お隣の大切な人にどうか手渡してください。」と「はじめに」の言葉を結んでいる。
この講演録は「ピースウォーク京都」(以下、「編者」という。)の活動に関わる一人ひとりが、それぞれがいる場で力をあわせて掘った手掘りの井戸だと思えた。
その手掘りの井戸水の清冽さに驚く。
講演録を再読して
カバーデザイン/長尾史和(SOUP DESIGN) イラスト/伏原納知子 写真提供/中山博喜(ペシャワール会),ペシャワール会、石風社 |
講演(2001年12月9日)前後の状況について
まずは、この講演が行われた前後はどのような状況だったか。
「講演録」には、編者によって作成された「アフガニスタン、中村医師、ペシャワール会を巡る略年表」と共に、アメリカによる空爆を受けて、ペシャワール会が開始した「アフガンいのちの基金」の報告と今後の展開を編者がペシャワール会ホームページより、抜粋、再構成したものが収録されている。(以下「アフガンいのちの基金」報告)
「アフガンいのちの基金」報告
2001年10月7日のアメリカ軍によるアフガニスタン空爆開始を受けて、ペシャワール会は、「巨大な難民キャンプと化した100万都市カブールで餓死の予期される人々の生命を保証し、みじめな難民化を防止する」ために緊急食糧配給(小麦粉と食用油)を計画、このための「アフガンいのちの基金」が10月12日に設立され、全国で募金の呼びかけが始まった。
現地の活動
・10月17日ペシャワールでの小麦粉作業開始
・20日アフガニスタンへの食糧輸送開始
・23日ジャララバードで食糧配給開始(1家族3カ月分)
・30日カブールで食糧配給開始
2001年12月6日現在の実績(速報値)
・寄付総数:22,409件
・寄付総額:395,136,426円
・配給:小麦粉1400トン、食用油140トン(約15,000家族)
12月末段階で、カブールでは、WFP(世界食糧計画)をはじめとする多数の各国NGOによる救援ラッシュが始まり、PMS(ペシャワール会医療サービス)の仕事は山場を越えた。ペシャワール会に蓄えられている3000トンは、東部へ逃れたカブールからの避難民や、旱魃と空爆でジャララバード周辺の農村に避難した人々に届けられることになっており、すでに2002年1月8日から輸送・配給が開始されている。この食糧配給計画は2月末ヲもって終了、善意の基金は、第二期「緑の大地」計画として、農村の復興などにあてられる。
以上のような状況の中で行われた京都での講演であったことを心に刻んで、中村さんの講演に、今一度耳を傾ける。
講演「平和の井戸を掘る アフガニスタンからの報告」
中村さんは3つの柱で話されている。(Ⅰ.アフガニスタンというところ Ⅱ.ペシャワール会の歩み Ⅲ.旱魃と空爆)
講演を採録、校正した編者による章立て、見出しで、お話の内容がまっすぐ伝わってくるように思われた。
中村さんは「アフガンいのちの基金」についての報告からお話を始め、その日の講演では、「私たちの会の17年の歩みとともに、アフガニスタンの普通の人々がどのように生きてきたか、日々の生活の中でどのように感じてきたのかといったことを、私たちの活動を通して紹介したいと思っております。」
以下、講演会場にいる一人一人の心の奥深くに届く言葉が語られていて、関心ある方にはぜひ本書を手にしていただきたい。(在庫なし、図書館でリクエストを)
お話の中からいくつかのことを
・ペシャワール会について
「このところのテレビや新聞などの報道を見ていると、ペシャワール会では、私、中村が一人で奮闘しているというふうに思われがちですが、そんなことはまったくありません。現地の献身的な二ニ〇名のスタッフの活躍はもちろんのこと、日本の五〇〇〇名の会員の方々の支援なくしては、ペシャワール会の活動は成立いたしません。ペシャワール会の年間運営費は約一億円ですが、これは会員の方々の募金が主力となって支えられています。
ここで、私たちが胸を張って言えるのは、募金の九五パーセントが現地に送られて実際の活動に使われているということであります。これは、みなさん、当然だと思われるかもしれませんけれども、実際のところ、組織が大きくなればなるほど現地に届くお金は少なくなるのです。要するに、管理運営にたずさわる人たちの人件費をはじめとする間接的な維持費がどんどんふくれ上がっていく。組織によっては、間接経費が八割から九割というのもめずらしくはありません。
一方、ペシャワール会ではすべてがボランティアで成り立っています。会の活動だけに従事して給料や報酬をもらう専従者という立場の者はいっさいおりません。みんな、それぞれに自分の仕事を持っていて、空いた時間を無報酬で会の活動にあてる――そういう人だけで構成されているのです。政府間援助や国連のプロジェクトに比べると、私たちの事業額はごくごく小さなものですけれど、しかし、機能という点から見ると、ペシャワール会は大組織の数十倍まさるグループであるということが言えます。つまり、同じ金額で比較すれば、私たちは実質的に数十倍の仕事をしていることになるわけで、これは私たちが大いに誇りとするところでもあります。」 (16~17頁)
・「だれも行かないところへ」
私たちは、「なるべく人の行かないところへ、人のしないことを」を方針にして、現在も少しずつ診療範囲を拡大していっております。よく、あれは中村が山好きだからあんな高いところに登っていくんだというふうにいわれるのですが、とんでもない(笑い)
私たちは、必要がありながら、だれも行きたがらないところ――こういう地域はいくらでもあります――、だれもしたがらないことをやるという方針に沿って活動しているだけのことです。人がドッと行くようなところであれば、私たちが行く必要はないだろうし、人がわれもわれもとやるようなことであれば、だれかがやってくれるだろうということですね。」 (64~65頁)
・PMS発足
「さて、そうこうしているうちに十五年がたちました。結局のところわかったのは、私たちが取り組んでいるのは、どうも簡単に終わるような問題ではないといことでありました。日本でさえ、ハンセン病の問題が終わるまで一世紀近くのじかんがかかったわけです。まして、こんなところでは、一世紀や二世紀は時間のうちに入らない。
というわけで、これまでの十五年間は様子見の時期であったのだとして、第一期、十五年でいちおうの区切りをつけ、第二期を三十年として、新たな活動を開始しました。
その出発点の事業となったのが、PMS(Peshawar-kai Medical Servise)、ペシャワール会医療サービス病院の建設です。
(略)
私たちが第一期十五年の活動を通じて貫いてきた基本姿勢の一つは、徹底した現地主義、つまり、日本の都合ではなくて、現地の仕事の都合、必要性に応じてできることをする、というものですが、その基本姿勢をこkで改めて確認したということになります。」
(75~76頁)
・子供たちの笑顔
(写真を撮ろうとして)――「子供たちはみなニコニコしている。これは私が昔から感じていることで、悲惨な状況にある者、貧しい中にある者のほうが、明るい顔をしているのです。
それが、日本に帰ってくると、はて、助ける側の日本人のほうが暗い顔をしているではないか。これはどういうことなのかと常々考えていて、結局のところ、何も持たない者の楽天性というのは確かにある、というふうに思うようになりました。人間というのは、一般に、持てば持つほど守るものが増えて、暗くなってくるのではないか。
(略)
物を持つと守らざるをえなくなるという暗さ。
じかに触れあって助けあうことを忘れてしまった暗さ。(日本人は、人と人とがじかに触れあってたすけあうということを忘れてしまったのではないか。そのための暗さというものがあるのではないかと思われてなりません。)
正直言って、初めのころは、私たちにも、私たちの仕事は人様を助けてあげるものだちう、どこか思い上がった子持ちがなかったわけではありません。しかし、今では、この十七年間、アフガニスタンとパキスタンで仕事を続けてきたことによって、逆に私たちが助かってきたのではないかというふうに思うようになっています。何よりも、くよくよすることがなくなってきた。本当に人間にとって大切なものは何なのか、大切でないものは何なのか。こいうことについてヒントをえたということ――これはたいへん大きな一つの成果であったと感謝しております。
今のアフガニスタンの問題は、いろいろな角度から目をこらして見れば、かならずきちんんとみることができます。はっきり申しあげておきますが、現在は、何かの終りの始まりの時であります。「この終りの始まり」に際して、アフガニスタンは、われわれにとって一つの大きな示唆を与えてくれる地域であり出来事であろう――そんなふうに思っております。」 (95~96頁)
論楽社のこと〈中村さんとの出会いを手渡してくれた論楽社の活動〉
ここで、中村さんの講演から少し離れて、私が初めて中村哲さんのお話をきく機会を授かった経緯について触れておきたい。中村さんのお話を初めてお聞きしたのは、2003年8月だったか、京都市岩倉の論楽社においてだった。
論楽社は1981年4月に虫賀宗博さんと上島聖好さんが共同運営で活動を始めた小さな私塾だ。(小さな民間教育・講座・出版の場所。)
「家を開放し、こどももおとなも自由に参加する寺子屋。折々に講座を開き、そこから紬ぎ出された光のような言葉で、小さな本をつくる。」
論楽社では、”生きてある言葉を聞きたい。体の中に紡ぎたい。糸車を回すように、ゆっくりと。そう思い、手づくり講座として、「講座・言葉を紡ぐ」” を1987年8月から始めている。「会場は論楽社。障子や襖をとりはらった座敷、縁側、奥間にざぶとんをしきつめ、同じ目の高さで、聞き、考え、語りあう。」第1回目は岡部伊都子さん。以後、藤田省三、安江良介、徳永進、松下竜一・・・・の各氏を招き、現在に至る。(「論楽社とは何か?論楽社の12年――個を育てる集団・集団を育てる個 虫賀宗博 〔松下竜一さんの月刊誌『草の根通信』1994年1月号 「論楽社ブックレットNo.6 島田等『次の冬』1994.3、2000.8第4刷に収録〕)
虫賀さんが中村哲さんのことを知ったのは1994年、瀬戸内にある国立ハンセン病療養所・長島愛生園で、島田等(しまだ ひとし)さん(1926~1995、1947年、長島愛生園に収容され、以後そこに生きた。『病棄て――思想としての隔離』ゆみる出版。)から手渡された1冊の本によってだった。
「島田さん(詩集『次の冬』論楽社ブックレット)が哲さんの『ダラエ・ヌールへの道 』(石風社〈1993〉)を手渡してくれたことがすべての始まり」。
「こんなひとがいる」
「読んでみたら、ええよ」
島田さんは一年後の1995年に人生を終えた。コツコツとためてきた200万円を哲さんのペシャワール会へ死後贈られた。こういうハンセン病回復者って、希有。
『ダラエ・ヌール・への道 アフガン難民と共に』中村哲 石風社 1997.11 |
『次の冬』島田等 論楽社ブックレット No.6 1994.3 |
虫賀さんは、さっそく中村さんに連絡をとり、1996年、京都市国際交流会館で行われた帰国講演会に参加する。その時、講演会の参加者はわずか4名だったという。
中村さんに深い感銘をうけた虫賀さんは翌年の1997年からだったか、論楽社に中村さんを招き続ける。
私が初めて中村さんの話をお聞きした2003年8月の論楽社の「講座・言葉を紡ぐ」の場は、中村さんを招いての7回目の場であった。その日、その場は何か親密で和やかな気配に包まれた場であったように思う。厳しいお話の内容であったが、論楽社という場では、中村さんが何か心解き放たれた寛ぎの一瞬をもたれいるのではと思われた。それは一年、又一年と何年にもわたって,中村さんと向きあう場を積み重ねてきたことから育まれてきたものではないかと思う。そのようなほんとうにかけがえのない場で、私にとって中村さんとの最初の出会いの場を授かったたことにあらためて驚く。
ピースウォーク京都を始めたお一人から、中村哲さんのお話を聞いたのは論楽社でが初めてだったとお聞きした。京都で継続して中村さんを迎えての、参加者一人ひとりを深く励ましてやまないピースウォーク京都による中村さんの講演会の始まりに、論楽社での集いがあり、それが島田等さんから虫賀さんに手渡された一冊の本と島田さんのお言葉から始まったことに思いを深くする。
お休みどころ、のこと
1981年、虫賀さんと共同運営で論楽社を始めた上島聖好(うえじま しょうこう)さんは、虫賀さんとともに、論楽社やその他の場所で、私にとって岡部伊都子さんとの出会いをはじめ、大切な出会いを幾度となく手渡してくださった人だ。
上島さんを想うと、「ようこそ ようこそ」という声と、その笑顔がおもい起こされる。
上島聖好さん(1955~2007)のことについて、いくつかのことを記しておきたい。
論楽社の活動が始まって12年目の2003年5月1日、上島さんは興野康也さん、グレゴリー・ヴァンダービルトさんとともに「お休みどころ」をひらく。場所は「九州山地の標高700メートルの山の中、熊本県の球磨川の源流地。その水源の地(熊本県球磨郡水上村)は、トルストイの翻訳者で徴兵拒否者、農民の北御門二郎(きたみかど じろう)さんとの出会いが選ばせた。
「お休みどころ」という名前は詩人の茨木のり子さんと、その詩「お休みどころ」との出会いから付けられた。」
「お休みどころ」はどんなところか、その誕生の経緯は?
上島さんの文章「お休みどころ」から。
お休みどころ 上島聖好(うえじま しょうこう)
”お休みどころとは、元気になる場所。あなたの背負った「重たい荷」をいっときおろし、「ここで一休みしてのどをうるおし」、新たな一歩を踏み出すところ。非営利の安息所です。
私は京都の岩倉盆地で論楽社という小さな民間教育・編集・出版の場所を営んでいました。家を開放し、こどももおとなも自由に参加する寺子屋。折々に講座を開き、そこから紡ぎ出された光のような言葉で、小さな本をつくっておりました。
そうするうちに、こころとからだの疲れたひとたちに出会います。故郷を奪われた人たちにも出会います。
その人たちの役にたちたい。何かほっとくつろいでもらいたいな。よし。ちから合わせてやってみよう。空気と水のうまいところ、人情味のあるところ、豊かな自然に包まれたところ、そこに立つだけで元気になる。そんなところはないものか。なつかしい土地はないものか。
と、願っていたところ、北御門二郎さん(1913~2004 農耕者・トルストイ翻訳者・徴兵拒否者)に出会いました。二郎さんを養った水上の地なら人のこころもやさしかろう。未来の人を待つ平和なところだろう。二郎さんの無垢(むく)な光に誘われて「ここが探していた願いの地、ここでお休みどころを開きたい」というと、北御門すすぐさんと成尾政紀(まさみち)村長は、この古民家にひきあわせてくださいました。
そうして、2003年5月1日、お休みどころは生まれました。
こころとからだの疲れた人、行きづまった人、はたまたそれらに無縁の人も、ようこそ
ようこそ。いっぱいのお水をどうぞ。おいしい泉のお水です。医者もおります。無料です。政治団体や宗教団体とは何ら関係ありません。念のために。
「あきんど 農夫 薬売り
重たい荷を背負ったひとびとに
ここで一休みして
のどをうるおし
さあ それから町におはいりなさい」
(『倚りかからず』より「お休みどころ」茨木のり子)
「お休みどころ」の名付け親は、詩人の茨木のり子さん。
花の寺
このたび友人たちのちからをかりて、納屋を改築。お休みどころ芸術劇場が誕生しました。この世界でたまたま出会ったいのちの花々、「きょうだい」たちが集い、語らい、
笑う、寺子屋。つづめて、花の寺。浜辺の藻場(もば)のようなお遊びどころ。
四十六億年という涯てしない地球の歴史のなかで、私たちは今を生きている一番新しいいのち。
出会いのよろこびにさざめく花の寺を、ひっそりと建てつづけるお休みどころでありたいと願います。
「花の寺」の名づけ親は、随筆家の岡部伊都子さん。”
(理想郷 桃の根っこに 墓石おく 2007年2月18日記)
【『お休みどころ――上島聖好の世界』上島聖好遺稿集編集委員会・編 (株)ぱんたか
2910.4.4 以下『遺稿集』という】より。上島聖好さん(1955~2007.10.29)
「哲さんに、背中を押されて」
少し長く、聖好(しょうこう)さんの文章を引用させていただいたのは、『遺稿集』(「天が人を利用する」)のなかで、こんな言葉に出会ったからだ。
”昨年(2005年)の9月1日のことだった。9月3日に中村哲さんの「講座・言葉を紡ぐ」があるので、私は論楽社にいた。哲さんにはお休みどころの地を決めかねているところへポンと背中を押してもらったという恩がある。私は一言礼を言いたかった。
ことのはじまりは2002年1月。
私たちは友人を訪ねて長島愛生園に何回となく足を運んでいた。それで、何とはなしに『人間を見つめて』(神谷美恵子著)を開いたのではなかったか。すると本の中からハラリと一枚、茶色に変色した新聞の切り抜きが落ち葉のように落ちてきた。亡き父が私のために切り抜いてくれた記事だった。
北御門二郎さんの「ソビエト文学翻訳者会議に出席して(1979年12月26日「朝日新聞」)というものである。私は即座にこの人に会いたいと思った。生きておられるだろうか。私は祈るような気持ちで母の一周忌で熊本に帰るのでそのときお会いできたらと手紙を書いた。そしたら折り返し長男のすすぐさんからこういう返事が来た。(本文末に、すすぐさんからの手紙を掲載。(その中で、「昨年末に二つの雑誌の取材を受けた」ことが記されていて、その一つ)『現代農業増刊号 冬2月号』のコピーを手に入れて(略)、開いてびっくり。
巻頭に中村哲さんが出ているではないか。インタビューに答えて哲さんはいう。
「温暖化などによって状況が追い詰められていくと、日本でも『やっぱり熊本の五家荘(ごかのしょう)のような山奥に住もうか』という動きが必ず出てくるでしょう。
私は導かれるままに、一山越えたら五家荘、ここ水上村にやってきたのだった。”
手紙から
『追悼録』は「エッセイ」「手紙」「通信」「お休みどころ芸術祭」「絵本」「あとがき」からなっている。2005年3月7日(月)付けの岡部伊都子さんへの手紙は次のように書きだされている。
”岡部伊都子さん
私たち四人(注1)を育てつづけていただいてありがとうございます。
伊っちゃん母さんの82歳のお誕生日の産声をきいたあと、四人で(略)・・・”
友人の結婚式に参加する。八十人の人々の前で、結婚するお二人が挨拶の言葉をのべたあと、上島さんは、用意しておいたパステルナークの詩をよむ。
「創造の目的は献身にある。評判でもなく、成功でもない。宇宙の愛を自分にひきつけ
未来の叫び声に 耳をすますのだ・・・・・ ほかの人々は 生きた足跡をたどって
一歩一歩 おまえの道をくるだろうけれど 敗北と勝利とを おまえ自身が区別してはならぬ」(パステルナーク)
ついで、手紙を次のように結んでいる。
”伊っちゃんの『献身』(=本)を彼らに贈ることができ、私は幸せです。
ほかに何を望もうか。
というほどに。”
上島さんは、岡部伊都子さんを、伊っちゃんとよんでいた。
上記「四人」の(注1)の説明には、「上島、虫賀、グレッグ、興野の四人。」と記されている。(170~171頁)
最後のページの近くにある、おやすみどころついての文章。
「お休みどころは、2003年5月1日、北御門二郎さん(1913~2004)との出会いで水上村に開かれた心の水飲み場。設立メンバーは、興野康也(お休みどころ代表、精神科医)、
グレゴリー・ヴァンダービルト(歴史家、UCLA博士課程卒)、上島聖好(文筆)。ボランティアのトラウマ治療の場でもある。日常に芸術、学問、精神科治療をとりいれ、いきいきと生きることを目指す小さな共同体。「戦争と平和」を課題に、模索しています。
あとがきから
『追悼録』の「あとがき」を論楽社から上島聖好さんと行動をともにした興野康也さん(上島聖好遺稿集編集委員会:興野康也、楢木裕司、小堀郁江の3人)が書いている。
その中で、
「彼女は生前、自分の本を出版することを拒み続けましたので、膨大な遺稿が残りました。それらを整理・出版する仕事が我々に残されました。
彼女の仕事は多方面にわたっています。エッセイや手紙をかくことはもちろん、通信発行、講演会の企画、編集、教育・・・・。人と人とのネットワークをつくる天才だしたし、人の仕事を鼓舞するのも上手でした。
結局この本では、彼女の多面性をなるべく浮彫にするよう努めました。
結局この本でとりあげたのは彼女の晩年の四年半、お休みどころ創設に打ちこんだ時期の作品だけです。それ以前にも彼女には二十年におよぶ京都の論楽社での活動の時期がありますし、書いたものも多数あります。これらがいずれ何らかの形で出版されることを望みます。
なお、2006年以降の彼女の主な作品は、お休みどころのブログ(http://oyasumidokoro.ronngakusha.com/楢木裕司作製)に掲載されています。2006年以前についても、可能な限り今後掲載していく予定です。
「人が困ったときに役立つ言葉」。それを残すことが彼女の願いでした。彼女の言葉を活用して下さる方がすこしでもおられれば幸です。」
とある。
私が中村哲さんに出会うことができたのは、上島聖好さんや虫賀宗博さんたちのこのような歩みがあってのことだった。そのことをあらためて胸に刻む。
ピースウォーク京都の『講演録』については、さらにいくつか記したいことがあるが、稿をあらためたい。
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