2007年から糸島に移り住み、思いを同じくする人たちと「としょかんのたね・二丈」を始め、志摩地区の「みんなの図書館つくろう会」、二丈深江地区の「糸島くらしと図書館」の人たちと共に、糸島のより良い図書館づくりを目指して活動してきた。「糸島の図書館は今、どうなっているのか」、糸島図書館事情を発信し、市民と共に育つ糸島市の図書館を考えていきたい。糸島市の図書館のあり方と深く関わる、隣接する福岡市や県内外の図書館についても共に考えていきます。
2021年8月30日月曜日
猛暑を突きぬけ、由布院と仙台から一陣のすがしい風が・・・8.14 No.78
8月のはじめ由布院から、そして仙台からうれしい冊子や本が届いた。猛暑続く日々の中、
由布院盆地の野や林にふく風が吹いてきてすがしい気分に包まれた。続いて東北の杜の都
のあたり、その地に長く語り伝えられてきた話に耳をかたむけ、その語りに新たないのち
の息吹きを吹きこんで生まれた2冊の小さな本からは、長年の友がかの地で、その地の声に
耳をすましながら日々を営んできた様が伝わってきて、一陣の風が吹きぬける。ーーーーーーーーーーー
‘ゆふいんブックレット vol.① のタイトルは、
『ゆふいん大航海時代の幕開け ~旅をした仲間たち~』座談 溝口薫平×中谷健太郎+仲間たち
発行:日本旅館協会湯布院連絡会 協力:(一社)由布市まちづくり観光局
編集:由布院の百年・編集サロン ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(このブックレットは市販されていません。ご支援カンパ(千円以上)の返礼としてお分けしています。
ご希望の方は当サロンまで電話かメールで連絡お願いいたします。☎0977ー84-5465(090ー9595-5288)
yufuin100@gmail.com なお、教育活動など特別の目的のある場合はご相談ください。)ーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
溝口薫平さんと中谷健太郎さんの2回にわたる座談を掲載。司会は湯布院の百年・編集サロンのスタッフ。
同誌のお2人のプロフィールより抜粋。ーーーーーー
溝口薫平〔1933(昭和8)年、玖珂郡野上村(現・九重町)生まれ、日田市立博物館勤務を経て、1960年代
より湯布院の自然保護やまちづくりに携わり、1963年から玉の湯旅館の経営に参加。1982年(株)玉の湯
代表取締役に就任。2003年同会長となる。湯布院町商工会長や湯布院温泉観光協会会長等を歴任。
・・・中谷氏・志手氏とともに湯布院のまちおこし・まちづくりを展開。ーーーーーーーー
中谷健太郎氏〔1934(昭和9)年、速見郡北由布村(げん・由布市湯布院町)生まれ、1957年明治大学卒業
後、東宝撮影所に入社。1962年、父の他界を機に帰郷し旅館亀の井別荘を継ぐ。1980年、(株)亀の井
別荘代表取締役に就任。湯布院町商工会長や湯布院温泉協会会長を歴任。ゴルフ場建設計画に対する「由
布院の自然を守る会」の結成や、大分中部地震による観光客低迷に対する、ゆふいん音楽祭、湯布院映画祭、
牛喰い絶叫大会等の様々なイベントの企画等、由布院の文化と自然資源を育てるまちおこし・まちづくりを
溝口氏・志手氏とともに展開。・・・
本文111頁の”ゆふいんブックレット”の第1号、面白さに引き込まれ一気に読んでしまった。由布院のまち
づくりがどのようにして起こったか。その事の起こりはどのようなものだったか、活動の要にいたお二人の
座談。座談の場をつくり、お二人から活動のエキスを聞きだしそれを記録して、これからの由布院のまちづ
くりを担っていこうと考え行動している”仲間たち”=由布院の百年・編集サロンに集う人たちから、それぞ
れの地で地域の在りようを考えている人たちへの贈りものとも思える1冊。
タイトルの‘大航海時代は・・・‘の標題の由来は今から28年前に『西日本文化』の連載エッセイ覧「風車」
に「南蛮ポルトの旅」と題して中谷さんが寄稿した文章からうかがわれる。
「ポルトガルに旅をしてきた。四百五十年前に往来があり、わがブンゴ・ユフ村にもレヂデンシャ(伝道所)
があった。まもなくポルトガルはスペイン王の下に統括され、日本も禁教鎖国の時代に這入って交流が途絶
える。パードレ(修道士)たちに「その数二千人」と報告されたわがムラのキリシタンもばらばらに消滅し、
レヂデンシャの跡形もない(検討はついているけれど)。四百五十年昔の往来を今に蘇らせようという動き
は十年前からわがムラに始まっている。南蛮食文化祭りがそれだ。実行委員会は「南蛮」という文字にこだ
わって「大航海時代」と言い始めているが、私は南蛮の方が正しいと思っている。私たちの先祖は正しく「
南蛮」とよんだのだ。「大航海」などという曖昧な視点の言葉の方がよっぽど怪しい。・・・・・」
(『西日本文化』1993年2月6日発行より)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2回の座談のうち第1回は、由布市観光アーカイブ第1回座談 「日観連とゆふいんの観光まちづくり」と題
して2019年12月26日(木)14時~16時に開かれている。
由布院観光の中核「日観連由布院連絡会」のこと
由布院の観光地づくりの活動のベースとなった「日観連由布院連絡会」は観光協会も旅館組合も商工会も
ほとんど動きがなかったころに始まっている。日観連(日本観光旅館連盟)は1950年、「旅館の施設及び
サービスの向上改善並びに交通機関・観光関係機関との連絡協調を図り、旅客接遇の向上改善」という目
的のもとに設立。その後2012年10月に「国際観光旅館連盟(国観連)と合併。新法人「一般社団法人日本
旅館協会」を設立している。
日観連は「後々の旅館組合や観光協会、商工会といった公から認められた団体とは半歩くらい離れて、
懇親団体のようなイメージがありましたよね。その後、JTBが力を入れて日観連の支部ができた。(大分県
支部)・・・私らは大分県支部で年に一回くらい会うだけじゃ話にならんぞということで、「由布院
連絡会」を勝手につくったんです。全国の日観連の中で由布院だけだと思います、連絡会をつくったの
は・・・」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「日観連の大分支部にも無理があったので、その隙をついて由布院だけで連絡会をつくってしもうたんで
す。都合がわるくなると「連絡会でやりよるんじゃ」と言うと、支部は何も言えんわけ。・・・五十年
以上経ってもその雰囲気がちょっと残っているような気がするんなぁ」
「県の支部が連絡会の上にあるのかどうか曖昧じゃった。あれが良かったなぁ。連絡会は自分で仲間意識
を持つ以外にないわけです。公に認められている会であるような、ないような、とにかく仲良くする他は
ない。毎月二十日にわらわらと集まって、まず歌を歌う(笑)。昔からの親分衆と若者が盛り上がったの
は浪花節じゃったのを憶えています。【※薫平さんも健太郎さんも若者だった!】
中には早稲田大学とか東京のYWCAを出たインテリの若者もおったんじゃけど、「一言も言わせん」(笑)。
薫平さんに歌を歌わせた時は最高に盛り上がった。歌が盛り上がると、おじさんたちは「難しいことはもう
いい、一杯飲みに行こうや」と(笑)。今はずいぶん「マトモ」になっていますが、それでも前の駅長が
お神楽の面を被って、列車が入るたびに「じゃんじゃかと」舞っておったのは、由布院の伝統的なながれで
す。森駅長さん、ガンバってください(笑)。【座談会に参加していた、当時JR久大線由布院駅の駅長、
森五岳氏(2017年~2020年3月)への中谷さんのエール】
―――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「考え方を勉強すること」に力点を
(連絡会の会員は当初、16~17人くらい)
「会費を自分たちで出しちょって、公の補助がなかったので、誰からも文句を言われんかったし、誰を招待
しても勝手でした。総会資料のどこかに実働は観光協会や行政、旅館組合にやってもろうて、日観連は
誘客事業のための「考え方を勉強すること」に力点を置きました。
それで、ゲストを招んで話を聴くことと、研修旅行が事業の柱になったんです。いろんな人を招んだし、飲
んだし(笑)、いろんなところに旅をしました。奇数年が国外で,偶数年が国内じゃったかな・・・。」
でも、自由な風土とういうか、自由にいろいろなことができました。あとは政治にかかわらないということ
になっていて、落ちたら、また戻ってきていました。」
ー――ーーー【目をひき付けられたのは次のくだり・・・】ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「政治に関わらんかったというか、選挙に関わりませんでしたが、「主義・主張」はいっぱい出しておりま
した。日観連で話し込んで、旅館組合とか観光協会とかに拡げていくんです。米軍が演習を終えて、
町に降りて来るのにどう対処するか?別府はウエルカムだけど、由布院はどうするか?演習場の
イメージ は良くないから遠慮してほしい。それを日観連(由布院連絡会)が中核になって、観光協会の
理事を説得 しました。「観光協会の有志」ちゅうことで個人名で店の入口に英語のビラ(日本語と
あわせて)を 貼り 出す。(略)あなた方の国と同じように、私たちの国でも見知らぬ人が個人の
家に入ってくることはNOです。という主旨です。「入ってくるのであれば、軍隊を辞めて、アメリカ市
民になった時に、おしゃれな 服を着ていらしてください。歓迎します」。
「個人で貼り出すので、「うちの土地には入らないでください」ちゅう形になって、観光協会がどう動い
たとか、湯布院町がどう動いたとかにはなりません。その話を聞いて、福岡の領事がびっくりして訪ね
てきたけど、お茶だけ飲んで帰りましたわ(笑)」
「みんな革新的でしたねえ。組織やものの考え方を絶えず新たに提案していました。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
注記:沖縄米海兵隊実弾演習の本土5カ所への移転
日出生台は1900年から九日本軍の演習場とされ、その後、拡張し続けて、現在は4,900ヘクタール。「癒し
の里」と呼ばれる温泉観光地由布院の北部、由布院駅から車で25分のところにある西日本最大自衛隊の
衛隊の郡司演習場。年間330日、(実弾演習は約230日)、ほぼ一年中、軍事訓練が行われてる。
1995年、沖縄で、米兵3名による小学生の少女に対する集団強姦事件が起きた。この事件により、長年の
沖縄県民の怒りは爆発、沖縄県議会、市町村議会は米軍への抗議決議を採択。事件に抗議する県民総決起
大会が開かれ、約8万5千人の沖縄県民が参加。日米両政府は、普天間基地の返還とともに、沖縄の県道
104号線を越えて行われていた155ミリりゅう弾砲の実弾砲撃演習を本土5カ所(北海道矢臼別、宮
城県王白寺原、山梨県北富士、静岡県東富士、そして、大分県日出生台)に移転する案を提示した。
大分県でも日出生台の地元、湯布院、玖珠、九重の3つの町の町長を代表とする反対運動が立ち上がり、
玖珠川原の反対集会では、1万6千人が受け入れ反対の声を上げた。特に由布院では戦後11年間も米軍が
数々の事件が(ママ・・を)起こした歴史がある。そのことを思い起こした町民が声を上げたのだ。しか
し、多くの民意を越えるかたちで、1997年から移転訓練が各地で実施されてきた。米軍は訓練の期間
中に住民の生活や観光の場に入り込んでくるということで、「軍隊としてではなく、一観光客としての来
訪を望みます」という意味の張り紙を行った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーー(ビラの日本文)ーーーーーーーーーーーーー
在沖縄米軍海兵隊第三海兵師団の方々は立ち入らないで下さい
(期間1月16日~2月11日・・全演習期間)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここは個人の生活空間です。沖縄から実弾砲撃訓練に来ておられる海兵隊の方々は、立入りをご遠慮ください。
みなさまが、「日本国内を移動する権利」は日米地位協定によって
守られております。しかし町民の個人的な生活や営業の権利は、町
民の個人に属しております。そのことは自由の国アメリカ市民でも
あられるみなさんにはとくお判りのことと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
近郊から心と身体を癒すために、――ひっそりと人々が集まってこら
れる小さな補用の町・由布院を、どうかそっとしておいてください。
実弾砲撃訓練が廃止され、みなさまが市民として由布院を訪問され
るときには、心から歓迎します。その日が一日も早く来ることを祈念
しています。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
由布院温泉観光協会員ーーーーーーーー
屋号
-----------------------------------------------------------------------
ーーーーー(このあと研修先での見聞が語られている)ーーーーーーーー
フランス、特に想い出に残ったハンガリー、チェコ、イタリア、何回も行ったスペイン。デンマーク、ドイツ、ベルギー。カナダーーーー
(由布院と同じスケールの散策観光地を丁寧に見るのが目的じゃった・・・何を見、どんな気づきが・・・)ーーーーー
ーーーー
「外の空間を公共のものとして、みんなが大事にして、その代わり、中は自由にするという
考えは、行ってみて気が付きました。」ーーー
〈ヨーロッパ研修の第一目標だったドイツ、バーデン・ヴァイラーという温泉場、人口三千人の村〉
「尋ねたら百年前にチェーホフがこの地で亡くっていた。立派なチェーホフの記念館があり、小さだけど
な町だけど、町の本屋にチェーホフの本があって、外国の人々も多勢いました。」「地域の人たちが自分
たちのまちを自慢していて、角々には表彰された人の記念の像が立っていて、こんなにまで住んでいる人
たちが自分のまちを誇りに思っていることはすごいと思いましたね。葡萄畑に行った時に豊かな農村だと
感じました。化学肥料を使っていないので、畑の中に手がずずっと入るくらい、土地が肥えていました。
凄かったね。道に迷うと、自分の庭先を通らせてくれました。(略)おもてなしというより配慮があると
旅人はこんなにまで安らぐんだということを旅の中で経験しました。」ーーーーーーーーーーーーーーー
「初めに三人で行った時は9か国回った ので、国民性も違うし、いろいろなものが見られたという気がし
ます。」(ヨーロッパ三人旅につ いては 、『鮮烈な町造りの気迫――車を追放、安静守る』と
題して、中谷さんが西日本新聞に1978年12月 23日より、何回かにわたって書いたもの収録されている。
三人旅は1971年6月かr40日間の旅、 第2回座談で語られている。)ーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーー【活動のあり方、グループの動きーーーーーー
「日観連(由布院連絡会)は面白いグループだとは思っておったけど、改めて見直すと由布院観光六十年
の中核だったような気がしてきたなぁ。」「「牛喰い絶叫大会」なんかは、役場の会議室で「牛喰って
絶叫しましょう」と主張してもまとまりませんわなぁ。事業は観光協会や商工会、農協、畜産協会なんか
で広がっていくけど、少人数で企画を練り上げるシステムは弱くなっておるんじゃないかな。
それはすごく大事なことで、村内の寄合いでごちゃごちゃやってるうちに計画が出来上がっていって、町
にも広がってゆく、といった流れが弱まっておるんじゃなかろうか。ーーーーーーー
日観連とか、今日のこの会とかは「苗床」だと思うんです。苗を育てるための苗床は大仕掛けなくて、ま
あこれくらいでしょう。そこで苗を丁寧に育てて、圃場に抵触したら、シッカリと育ちますが、いきなり
田圃(たんぼ)に種を撒いてもなかなか育たない。そいうう手法として考えると、ここ(庄屋サロン)が
苗代で、駅にできたインフォメーションセンターが実験圃場、観・旅や商工、農協、集落といった社会組
織が田畑・山野ではあるまいか。今、日観連が元気を取り戻したので、由布院の社会活動に苗代ができた
んじゃないかなぁ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「薫平さんは気に染まんことでもしっかり務めてきたけれど、俺は気の乗らんことはやらんかった。俺だ
けじゃったら、とっくに潰れておったでしょう。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「苗床と一緒で、企画者がきちんとしていないと育たんし、広がらないわけで、一般の人の思いつかない
ことを健太郎さんの天才的なひらめきが生み出してきたんです。」ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「天災的?(笑)忘れた頃にやってくる・・・。」「牛喰い絶叫大会もそうです。何かできないかなとい
うと、こちょこちょと話して、「それも面白いな。それならこうしようか」となって、やまびこのような
感じで、農家の人を巻き込んでいきます。健太郎さんは昔から恋文の代筆者で、いろいろな人たちの恋文
を書いていました。「野原で牛がこんなに育っています」と都会の人に伝えるのに、普通の人では表現で
きないことを実に見事に表現するので、都会の人は「それなら由布院にいてみようか。出資しよ
うか」となります。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「音楽祭も映画祭もいろいろ言いながら、町の人がバックアップしてくれましたなぁ。問題が起きるとそ
のつど、見方が現れて・・・。由布院を守っていこうとか、土地を売らずにおこうやとか、よう激しくや
りよったなあ。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
司会「皆さんが日常的に集まる場というのが日観連(由布院連絡会)だったのでしょうか。」ーーーーー
「はい。そ れれから、だんだん「このゆびとまれ」方式の実行グループに代わっていくわけです。」
「日観連は組織としては小粒じゃったけれど、ゲストを呼ぶと、急に強烈な団体になる不思議な会じゃと
思います。」「明日、暇じゃから、ゲストを招んで、昼飯を一緒に食べようや」といやり方は日観連(由
布院連絡会)以外ではできない。農協や商工会ではできない。観・旅もなあ・・・。」ーーーーーーーー
「正体不明で仲間が集まっておるだけじゃったけど、責任は支部につながっておる。自由な匂いのする公
のグループの「造り方と活動の仕方」を、もう一度手探って、記録しておくとよいなぁ。役員会を開いて
決議せんと動けんというようにガチガチの組織では、それなりの運動しかできんと思う。人様を自由にお
迎えするっちゅう空気は、固まった社会システムの中からは出てこんと思う。」「(司会)たの地区だと
日観連は宿泊施設だけが集まっている会となっていますが、由布院は連絡会になっているので、いろいろ
な業種の方が集まれたんですね。」「日観連でもなんでもない人が、日観連の旅行に紛れ込んでいました。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「お金がないのによく食べ歩き、泊まり歩きました。一流のものに身銭を切ったことは、補助金等を使っ
て視察に行くのとは全然違いました。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
由布院観光アーカイブ 第2回座談 2020年2月7日(金)14時~16時
由布院の町づくりのベースになったヨーロッパ三人旅
これは丸ごと読んでいただきたい。ここでは、リードの文章と、そこに出てくる本田勝六氏と志手康二氏に
ついて、同誌の記載のものより。そして短い抜き書きをいくつか。
(リードより)「由布院のまちづくりを語る上で欠かせないのが本多勝六博士の『由布院温泉発展策』。
(本多氏の講演から四十七年後の1971(昭和46)年、志手康二氏、溝口薫ことを語って平氏、中谷健太郎氏
は四十日間、 ヨーロッパに出かけます。この旅で見tこと、感じたこと、今の由布院に想うことを語って
いただきました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本多清六(ほんだ せいろく)1866~1952、現在の埼玉県久喜学校に通う市(旧菖蒲町)で生まれ、明治32年に日本で
最初の林学博士となった。造園家でもあり、「日本の講演の父}と呼ばれた。1901(明治34)年、日比谷公
園の設計を最初に、明治・対象・昭和と35年間上野丘公庫王3年生にわたって全国の講演の設計を手掛ける。明治神宮の森、東
京都水源林、大宮講演など。『由布院発展史』本多清六博士は1924(大正13)年10月11日、村の依頼で「由
布院温泉発展策」と題する講演を北由布村棉蔭尋常高等小学校で行った。その講演の前論は、ドイツ温泉地
など欧米における森林講演設備について語り、本論では由布院における具体的な提案になっていた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志手 康二(して こうじ)福岡県門司市(現北九州市門司区)に生れる。(父親が文字水上警察勤務だっ
た)その後、父の郷里由布院に帰り地元の学校に通う。1938年、母親「日の出旅館」を開業。1950上野丘高校3年生のとき結核
を発病。以後、自宅療養を続ける。1958年国立別府病院で肺の施術を受け、結核は治癒。家業の旅館の手伝い等をする。1961年
淑子さんと結婚。1966年(有り)ホテル夢想庵を設立し、代表取締役就任。「山の上ホテル夢想庵」を新築。1971年6月、溝口
薫平(当時は梅木)、中谷健太郎氏とヨーロッパ調査の旅に出る。1984年、肺手術の際の輸血が原因で肝臓がんを発症し、5月
24日死去。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【いざ、ヨーロッパへ――まちの歩き方・旅の仕方】
「1日5ドルの旅」という旅行本の翻訳がまだなかったので、『Europe on 5Dollars a Day』という
原書を東京で買いました。一冊まるごとだとかさばるから、行くところのページを毎日破って以て行きました。薫平さんんは何
も言わんけど、康ちゃんは「次はどこへ行くんかい」っちいうてセワシイ(笑)。「一緒に考えてくれたらいいのに」ちうても
「ワシは判らん」と威張っちおる。(笑)。気の置けん旅でした。薫平さんはどこでも寝られる人で。民泊はツインベッドじゃ
から、 私と康ちゃんがベッドに寝て、薫平さんは「こっちのほうが楽じゃ」ちゆて、床に寝てました(笑)。ーーーーーーー
「向こうに着いたら、ばらばらで行動しようや。前の人の頭を見て歩いてもおもしろないで。」と、朝飯が済むと解散して、夕
方5時に宿に帰ってきてホッとする。大冒険やけど、三人とも何とかやりましたなぁ。」ーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
―――(以下、『鮮烈な町造りの気迫・・・車を追放、安静を守る』中谷健太郎(西日本新聞1978.12.23より)ーーーーーーー
―――研修の一番の目的地、西ドイツのバーデンヴァイラーに着いた日が、その町にとって”特別な日”だった。(1971年6月)
「その日から町は町独自の交通規制を実施。特例を除いて安静時間内に町中で車を走らせることは全面的に禁止。安静時間とは
正午から昼下がりまでの昼寝の時間と、深夜から夜明けまでの眠りの時間である。この話は私たちを驚かせた。私たちは小さな
町がどこまで独自の生き方をしているか、町びとの意志がどこまで町を造っていっているか、それを見たくてこのドイツの人口
四千人の保養温泉地にやってきたのである。それがいきなり保養客が安静を要する時間だからといって町中で車を走らせること
を一切禁止したその日にぶつかってしまった。これは大変なことだ。私たちはグラテヴォルさんについて廻って事の次第を聴き
込んだ、そして鮮烈な町造りの気迫の渦に出会ってしまったのである。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーグラテヴォルさん・・・当時市会議員、バーデン・ヴァイラー温泉で何百年も宿をやっている親父・・・・・・・・・・
「あの日、グラテヴォルさんは熱っぽく語った。『その町にとって最も大切なものは、緑と、空間と、そして静けさである。そ
の大切なものを創り、育て、守るために、きみはどれだけの努力をしているか?』『きみは?』『きみは?』グラテヴォルさん
は私たち三人を一人ずつ指さして詰問するようにそう言った。それで私たちは真っ赤になってしまった。」ーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そして「7年ぶりの(1978年)、バーデンヴァイラーにグラテヴォルさん再訪。グラテヴォルさんは過労で病気になり、一日三時
間しか人に会えないという状態だった。その時間のほとんどを私たちに充ててグラテヴォルさんは待っていてくれた。町長や議員
を含む二十人の町びとと一緒に私たちが町にやってきたことがグラテヴォルさんをひどく喜ばせたようだった。ーーーーーーーー
ーーー
『きみたちは約束を守った』『きみたちは長い道を歩き始めたのだ。世界中どこの町でも何人かの人が、あるいは何十人、何百
人かの、けっして多くはない人が同じ道を歩いている。』『一人でも多くの人がよその町を見ることが大切だ。そしてその町を
造り、営んでいる”まじめな魂”に出遭うことが必要だ』。
それにつづく中谷さんの文章もぜひ本誌で。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本誌には貴重な各地の旅の写真や旅先から由布院の家族のもとに贈られた絵葉書をはじめ、驚くばかりの資料がふんだんに掲載
されている。第1回の座談は大きな丸テーブルの回りに10数人が椅子に腰かけて行われている様子を伝える写真があるが、薫平さ
んと健太郎さんの後の壁に掲げられている書「汀」を目にしておどろいた。乾千恵さんの書だ。(『月人石』乾千恵・書、谷川
俊太郎・文、川島敏夫・写真/福音館書店)乾千恵さんと由布院の人たちとのご縁のことに触れると長くなるので、機会があれば
他日に。さいごに、志手康二(1932―1984)、溝口薫平(1933)、中谷健太郎(1934)3氏の3人旅の背景には、3氏と湯布院町
長との間に次のような契約が交わされていました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー業務委託書ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本町は昭和34年5月厚生省より国民保養温泉地に指定され、爾来豊富な温泉源を活用し、産業と観光都市づくりに専念し着々とその
成長を挙げて来た。然しながら一方国の施策、社会情勢の変動等は都市計画事業の進展を阻害している現状である。ーーーーーー
又、教育行政面に於いても学校教育は勿論、社会教育面について、町民総ぐるみでスポーツの意義と認識を高めると共に、その実践
活動によって体力の増強を計り名実共に健康で明朗な町づくりを進めたい。ーーーーーーーーーーーーーーーーー
このような時期に先進地である欧州諸外国を視察して、観光行政にマッチした都市計画を行い、併せて教育文化面に新風を吹き込み
たいと思考し、次の三氏に業務の委託をする。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昭和46年5月29日ーーーーーー
委託者 湯布院町長 岩尾穎一ーーーー
受託者 中谷健太郎ーーー
梅本薫平ーーーーーー
志手康二ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこの資料をきれいに保存していたのは、志手淑子(よしこ)さん。(「山のホテル夢想園」代表取締役会長。満州国錦州生まれ。
1961年夢想園の前身「日の出屋」の代表だった志手康二と結婚。1984年夢想園の代表取締役となる。1997年には一般社団法人由布
院温泉観光協会の副会長に就任し、2001年~2007年までは〉同協会会長を務めた。その後の若者や女性の活動に大きな道を拓いた。
―――――――――――――――――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【見事な編集に感謝して・・・「編集後記」を紹介したい。】
「編集後記ーーーーー
「今回の編集にあたっては、『花水樹』『風の計画』や『たすきがけの由布院』(中谷健太郎著)『虫庭の宿 』(溝口薫平聞き書き、 野口智弘著)他を再読し、古い資料を探す日々が続いた。「知っているつもり」は危ういということに気づく。小さな町も永い大きな 歴史の中にあり、必然と偶然と知恵や努力、出会いの妙が重なる面白さ。航海はまだまだ続く。この町づくり航海記録は「昔のこと」 として片づけられることなく、これからの羅針盤になると信じている。文言の細かな校正では本多紗代さんに助けられた。2019年から
資料整理や座談開催に力を貸してくださったJTBの福永香織氏と小坂典子氏にも感謝したい。ーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーー由布院の百年・編集サロンーーー平野美和子ーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
当初、紹介を考えていた”東北・仙台からの風”については次回のブログで。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿