2007年から糸島に移り住み、思いを同じくする人たちと「としょかんのたね・二丈」を始め、志摩地区の「みんなの図書館つくろう会」、二丈深江地区の「糸島くらしと図書館」の人たちと共に、糸島のより良い図書館づくりを目指して活動してきた。「糸島の図書館は今、どうなっているのか」、糸島図書館事情を発信し、市民と共に育つ糸島市の図書館を考えていきたい。糸島市の図書館のあり方と深く関わる、隣接する福岡市や県内外の図書館についても共に考えていきます。
2022年11月6日日曜日
賢治と哲とひさし、と No.100
糸島市前原の旧商店街の一郭でブックカフェ「ノドカフェ」がオープンしたのは2017年
11月、今月はちょうど満5周年に当たる。風信子(ヒアシンス)文庫からは、ノドカフェ
オープンの時から本の出前を行っている。5年前の開店時の第1回目は、福岡市総合図書
館で、上野英信さんの没後30年に合わせて、福岡市文学館企画展として、よく準備され
実に中身の濃密な展示や講演会などを行っていたので、これに勝手に協賛として、上野
英信さんの関連の本でノドカフェでの展示(本の出前)のスタートとなったのだった。
この5年間、本の出前を行い、現在では2ヵ月で本をかえているのだが、前回の9月から、
出前した本について紹介する時間をもつことになった。出前の本については、これまで
特にテーマを決めることなくやってきたのだが、(石牟礼道子さんご逝去の時は、「花
を奉る 追悼 石牟礼道子さん」)、今月の11月の本棚については、表記の「賢治と哲
とひさしと」が、考えるまでもなく頭に浮かび、宮澤賢治、中村哲、井上ひさしさん3
人の本の出前となった。
「荒野に希望の灯をともす」 唐津・THEATER ENNYAで
その直接のきっかけは唐津市にある「THEATER ENYA(シアター演屋)」で、中村哲さん
の「荒野に希望をともす」(百の診療所より一本の用水路を)を見たことだった。(11月
1日、このため出前は11月2日)これは、中村さんの活動を支え、中村さんと行動をともに
してきたペシャワール会が企画し、「20年以上にわたり撮影した映像素材から医師中村哲
の生きざまを追うドキュメンタリーの完全版!」として製作されたものだ(1時間44分)。
これまで中村さんの著書やペシャワール会の会報の一部を読んできたが、ドキュメンタリ
ーでは、私が知らなかったことが随所に出てきたり、あるいは本などで知らされていたこ
ととは、このことだったのだ、という映像を見聞きしていると、中村さんが眼前にいて、
語り行動しているように思われた。
中村さんが「ヒンズークッシュの山奥深く、真っ白で荘厳な峰々が立ち並ぶ」アフガニス
タンの地を初めてその足で踏んだのは1978年、山岳会に医師として、一隊員としての同行
だった。1946年生まれの中村さん22(23)歳の時だ。医師のまったくいないその地で、中
村さんに診てもらおうと必死の様でやってきた病をかかえた患者さんやその家族と出会う。
らい(ハンセン病)患者とも。その映像を初めて目にした。
九大医学部を卒業した中村さんは国内の診療所勤務を経て、1984年4月パキスタン北西辺
境州の州都ペシャワールに赴任し、以来24年にわたりライ(ハンセン病)のコントロール
計画を柱にした貧困層の診療に携わる。最初に赴任した時、医療器具が何もないといった
状況がどのようなものであったかをかを伝える映像が時間をこえて立ち現れる。
2003年、石風社から出版された『辺境で診(み)る辺境から見る』の裏表紙の見返し(奥
付)で、中村さんの足跡をたどると、
「1986年にはアフガン難民のために、医療チームを設立し、長期的展望にたったアフガニ
スタン無医地区での診療活動を開始。1991年からアフガン東部山岳地帯に3つの診療所を
設立して、診療に当たる。1998年には基地病院PMS(ペシャワール会医療サービス、70床)
をペシャワールに建設、らい診療とアフガン山岳部無医地区診療の拠点とする。2001~20
02年にはアフガニスタン首都カブールに5つの臨時診療所を設置、貧困地区の診療を行う
一方、大旱魃に見舞われたアフガニスタン国内の井戸と地下水路(カレーズ)の掘削と復
旧に従事、1000本の井戸を掘る。2001年10月「アフガンいのちの基金」を設立、空爆下、
国内避難民への緊急食糧配給を実践。現地スタッフ約200名、日本人スタッフ約15名。年間
診療数約8万人(2006年度)。現在、PMS総院長。ペシャワール会現地代表。」とある。
映像では、空爆下の緊急食糧配給以後の中村さんの活動、国会での発言、子息が亡くなられ
た時のこと、用水路の建設や中村さん逝去後の記念碑と記念庭園の設置、学びと祈りの建物
の建設なども映し出されている。心と胸うたれる場面は数しれなかったが、とりわけ、無医
地区での診療を長老たちから、「あなたたちは、すぐにいなくなるのでは」と言われて、そ
れに応える中村さんの言葉とその表情、国会での発言(議員の反応)、子息を亡くされた時
のそのあり様、そしていのち賭けてようやく完成した用水路が̠河川の氾濫で埋まってしま
った時、濁流を前に佇む中村さんの後姿は目に焼きつけられる思いだった。自然の猛威(力)
の前での人間、その在りかた。その中から歩きだす中村哲さん。
ドキュメンタリーが終わった時、翌日、出前することになっている「ノドカフェ」の本が私
の中で決まっていた。中村哲さんの本だと。そして「賢治と哲」と「ひさし」とだと。
なぜ「賢治と哲とひさしと」かについてはあとで記すことに、まずは中村さんのことから。
『辺境で診(み)る 辺境から見る』
自宅に帰り、『辺境で診(み)る 辺境から見る』を手にする。「あとがきにかえて」と題
されて、次のように書き出されている。
「本書は、私が84年に現地赴任して、本格的に「アフガニスタン」に関わり始めた1989年か
ら現在まで、雑誌や新聞に掲載された記事を収録したものである。これまで出版された事業
報告的なものとやや趣が異なって、時事評論や随想が主体である。随想集は、宗教観や世界
観なども自由に述べられていて、率直に自分の考えが表現されていると思う。独断もあり得
ようが、それはそれで読者の批判を仰ぎたい。一連のアフガン問題記事は、この二十年の世
界的激動を反映し、一種の感慨を覚える。ペシャワール会の活動を概観できると共に、一九
九八の基地病院建設から現在まで、特にニューヨーク・テロ事件前後から空爆下の現地活動、
農村計画を振り返るのにも好都合である。(略)
本書に収録されているものは、巷の動きとは無関係に、過去二十年の現地事情が連続して圧
縮、記述されている。「新ガリバー旅行記」や「異文化の中で『医療』を問う」などは、テ
ロ事件直前に書かれたものである。最近のきな臭い世情の中で、「九・一一以後」の色眼鏡
がかかっていない記録として意味があるかも知れない。私事になるが、これまでの総決算と
も言うべき「医の普遍性」を扱った後者は、脱稿した直後に九歳の次男が悪性脳腫瘍を発症、
一年半の闘病生活を過ごして死亡した。背後を刀で刺された思いであったが、今となっては、
論旨を実証するようで忘れがたい。
通読して自分でも驚くのは、ペシャワール会の方針や私の考え方が殆ど変化していないこ
とである。それを頑固固陋とするか、信念を貫いたと呼ぶかは別として、アジアの辺境で人
々と苦楽を共にすることによって、時流に流されずに済んだことは確かである。どんなに世
情が変化しても、変わらないものは今後も変わらない。」
そして末尾には、「最後になりましたが稿を整理した石風社と、この事業に協力する無数の
善意に感謝し、共に邁進してゆきたいと存じます。 平成一五年二月」
(本書の発行は2003年・平成15年5月20日、1946年9月15日生まれの中村さん、53歳の著作)
収録された文章は、新聞や雑誌に掲載された記事であることから、一文一文短文ですぐに読
めるものだが、その一つ一つの文章のもつ力に驚かされる。短いどの一文にも中村さんが出
会い向きあい、見送った、言葉話せぬ幼子を含めて、その一人ひとりのいのちの声が中村さ
んと終生ともにあったからではないだろうか。
なぜ「賢治と哲とひさし、と」か、にもどろう。
宮澤賢治学会地方セミナーのことーーー
『辺境で診る辺境から見る』が発行されて、もうすぐ1年という2004年5月1日、私にとって
は、さいごの図書館の職場となった滋賀県能登川町で、「宮澤賢治学会・地方方セミナー」
を開催した。中村哲さんと井上ひさしさんの講演と対談を核にしたセミナーだった。その集
いを開くことになったきっかけは、(ブログ「図書館の風」No.38に記載、No.49-2 に録画)
その一年前だったか、たまたま図書館(能登川町立図書館)のカウンターにいた私に、よく
図書館を利用されている若い主婦が話かけてきたことだった。たしか関西地区で図書館のこ
とを学ばれていて何度か、講義でのお話もお聞きしていた。
「私は宮澤賢治学会に入っていますが、会では毎年、地方セミナーを各地で開いています。
それを能登川町で開いてくれませんか」
それが始まりだった。それから程なくして、私は中村哲さんの講演を京都で2度聞く機会が
あった。一度目は京都市左京区岩倉で、虫賀宗博さんの私塾”論楽社”で、そして日をおか
ず、京都市内ノートルダム女子大学の広い講堂で。その2つの会場で、中村さんの口から宮
澤賢治の名前がでた。「かの地で宮澤賢治を読んでいると、日本の今のありようがよく見え
る」、そのような言葉だった。1000人はいたのだったか、女子大の大きく広い講堂の座席で、
その言葉を耳にして、私は、これは中村さんと井上ひさしさんだ、との思い(天から降って
きた思い)が生まれていた。
後日、最初に連絡をとったのは、福岡市の出版社石風社代表の福元満治さんだった。福元さ
んとは、福岡での面識はあるものの不断ご連絡をとることもなく、その前に電話をしたのは、
6年前の1996(平成8)年の7月頃だったと思う。前年の3月、苅田町立図書館を退職し4月から
能登川町に新しくできる図書館と博物館開設の準備室での仕事を始め1年ばかりが過ぎた時
だった。
当時「うずもれている大切な文化にスポットを・・・」を合言葉に能登川町が淡海文化推進
パイロット事業の一つとして「能登川ふるさと百科」の発刊を企画したのだ。この事業は能
登川町の風景、産業、歴史、自然などさまざまな分野にスポットをあて、現代に生きる私た
ちが次世代に継承したいことを記録していこうとするもので、準備室が事務局を担当して委
員15名を公募した。委員15人のなかには、このような冊子出版事業に携わった経験をもつ人
はほとんどなく、ただ、「わが町能登川を本にして残したい」(編集子の弁)との熱意で委
員の応募に参加されていた。委員の一人から本づくりの要諦について問われていた私は、福
元さんに電話をしている。その時にお聞きしたのが、まず「目次づくり」からということだ
ったと思う。そのことを委員の方に伝えたのだが、平成8年7月の七夕の日に第1回編集委員
会を開いてからの委員15人の動きはすさまじかった。この事業が「能登川町総合文化情報セ
ンター」(図書館・博物館・埋蔵文化センター)のオープン記念事業の一つとして位置づけ
られていたため(開館は平成9年11月)、編集期間はわずか1年、急ぎ委員の分担を委員自ら
決めて、作業に取りかかったのだった。15名のスタッフは資料収集のため町内を駆けずり回
り、多くの町民の方の協力のもと、目次づくりから、原稿書きまで、すべて委員の手で作ら
れた。こうして平成9年11月8日開館前の10月に総頁215頁、中味豊かで多彩な、懐かしくて
面白い冊子が刊行され、能登川町の全世帯に各1冊配布されたのだった。
冊子のタイトルは、全委員が提出した25候補名から『能登川てんこもり』が選ばれた。セ
ンターが開館して最初の一か月間は町立図書館・博物館開館記念事業として、写真家今森光
彦さんの写真展を行っている。今森さんは能登川てんこもり委員会が始まった一年前から随
時、能登川町を取材され、その成果を開館記念の展示として発表してくださったのだ。能登
川で生まれ育ち、誰よりも町中を歩いているという一人の委員(委員長)が、今森さんの写
真のなかに、「能登川に生まれ育ち、40年以上暮らしてきたが、自分が知らなかった町」の
光景があると語っていた言葉が私のなかに刻まれている。その今森さんが委員の強い希望に
より冊子の装丁をしてくださったのだ。また『能登川てんこもり』冒頭には、今森さんが撮
影した町内各在所の写真が掲載され、それに続いて、「能登川再発見」と題した座談会の記
録が載っている。能登川町長の杉田久太郎さん、今森光彦さん、そして熱い思いで委員会を
引っ張られた『ふるさと百科』編集委員長の井口博之さん、3人の座談で、刊行後25年の今
読んでも、本づくりの意図が鮮やかに語られていて、心打たれる座談となっている。その年
から今森光彦さんには毎年、図書館で講演をしていただいた。(私の退職時まで9回、1回だ
け、時間が取れず。そのうち2回は絵本作家川端誠さんとの対談)今森さんのお仕事と生き方
は、私たちが立っている足もと、私たちの眼前に、豊かな自然といのちの営みがあることを
鮮やかに知らせてくれるものだと思われ、それは、能登川の図書館と博物館が目指す存りよ
うを照らしだし、指し示すものでもあると考えて、毎年の講演をお願いしたのだった。
石風社、福元さんのこと
能登川町で生まれた一冊の本のことを少し詳しくここに紹介したのは、その町の人たちにとっ
て大切な冊子づくりの始まりに、九州福岡の出版社、石風社の福元さんとの関りがあり、また
あらためて、福元さんからつながる中村哲さんとの縁しを思うからだ。
6年ぶりに福元さんに電話した私は、中村哲さんと井上ひさしさんとの対談を核にした宮澤賢
治学会の地方セミナーを能登川で開けないかと考えていることを伝えたのだと思う。
福元さんの話を聞いて驚いた。「中村さんと井上さんの対談は鎌倉でやっているよ。」「えー
っ」と驚く私に、「長野ヒデ子さんが」というお話に、私はびっくりした。「長野さんが鎌倉
に住んでいて、近くに住まわれている井上ひさし、ユリ夫妻と親しくされていて、中村さんの
活動をくわしく知っておられて、鎌倉でのお2人の対談になったと。
長野ヒデ子さんの絵本作家としてのデビュー作品は、『とうさんかあさん』(葦書房 1976)
で、この長野さんの第一番目の作品の編集者が当時、葦書房にいた福元さんだ。中村哲さんと
同じ1946年生まれの久本三多さんが代表の葦書房は、地方出版社の雄と呼ばれ、その出版物は
私にとっては図書館の蔵書として、また一人の読者としても、見逃せない本が多く、渡辺京二
さん他、個人的にも生涯にわたり手にしてきた幾人もの著者を葦書房の本から知らされてきた。
とりわけ渡辺京二さん編集の『暗河』(くらごう)は、現在熊本の田尻久子さんの橙書店から
出されている『アルテリ』と同じく、初めて目にする著者やその著作の面白さ、そして時を経
てますます面白い渡辺さんの文章に驚かされてきた。その『暗河』の最初の何号かで私は福元
さんの文章を読んで心に刻んでいる。当時、熊本にいた20代の若き福元さんが、石牟礼道子さ
ん、渡辺京二さんたち、そして水俣病の患者さんたちとともに水俣病闘争に関わっていた時の
一文だ。福元さんは私にとっては、その一文の著者としてあったことを今にして思う。
長野さんが最近うけたインタビューでの発言によれば、『とうさんかあさん』は太宰府に住ん
んいた時、長野さんの義妹(弟の奥さま)が入院され、弟の子どもを預かっていた時期、広告
の裏に絵を描いてお話を作ったりして遊んでいた。そのときたまたま長野さんの子ども文庫を
訪ねてきた編集者が、それを見て「この絵本をだしたい」と。それが葦書房の福元さんだった。
インタビューでの長野さんの言葉、「作家がいても本はできない。どんな編集者に出会うか。
素敵な人、編集者福元さんに育てられた」と。
葦書房から独立して石風社を始めた福元さんのお仕事、福元さんならではの石風社の本に、深
い喜びを手渡されてきたと改めて思う。中村哲さんの『ペシャワールにて』(1992)に始まる
著作のこれまでに至る一連の出版、その持続的で深い営みに驚きと励ましを受け続けてきた。
石風社との長く深い交流から生まれたと思われる阿部謹也(『ヨーロッパを読む』1995)、何
ともうれしい森崎和江さんの『 』、長野ヒデ子さんの本では、『ふしぎとうれしい』(20
00)以後、最新作では、『 』。そして近々、新作もでるようだ。福元さんの長野さんとの
出会いは長く深いものがある。中村哲さん亡きあとは、お二人で中村さんを語る場も持たれて
いる。
長野さんとの出会い
そして長野さんと私の出会いもふしぎといえば不思議なご縁だ。私が博多駅近くの記念会舘図
書室で働き始めて程ない時だったか、大宰府に住んでいて借家に離れがあったので、文庫を始
めていた(字名は連歌屋区だった)。大宰府天満宮に近く、四王寺山への登り口にあったので
”四王寺文庫”名づけ、近くの坂道の電信柱などに文庫開きの手書きの案内などを貼った。そ
うしたらやってきた近所の子どもたちの中に、『大宰府』(葦書房1982)の著者の森弘子さん
や長野ヒデ子さんのお子さんがいたのだ。長野さんの年譜をみると、そのころ長野さんは『と
うさんかあさん』(1976)をすでに出版されていたようだが、私はそのことを知らずに長野さ
んにお会いしている。家にやって来られた長野さんとお話したのは、その時の一度きりではな
いかと思うが、本棚にたまたまあった丸木俊さんの『女絵かきの誕生』だったか、新書版の本
を手に丸木俊さんへの深い思いを語られたのが今も心に刻まれている。以後福岡市への引っ越
しが急に決まり、たしかご挨拶もできずお別れし、再びご縁ができたのは17,8年後の、2005
年10月28日、能登川に移ってからのことだった。(毎日新聞大津支局長の塩田敏夫さんが同紙
の日曜日または月曜日の紙面に書いていた『支局長からの手紙』、2005年11月7日の滋賀版の
頁の「心を育てる絵本」で長野さんの講演会の期日を知ることができた。)
能登川の保育園に働く職員の方が、能登川の図書館に講演会の講師として長野さんを呼ばれた
のだ。その時、長野さんは講演の場で、”四王寺文庫”で子どもたちと折り紙で作った出来上
がりのもの(私には難しくてとてもできない、文庫を手伝ってくれたどなたかが、こどもたち
と一緒につくったものだと思う)を鎌倉の自宅から持って来られて私を驚かせた。
【支局長からの手紙「心を育てる絵本】2005年(平成17年)11月7日(月曜日)をここ
で紹介しておきたい。能登川にいた当時、塩田さんが大津支局長だった2年間、日曜日か月曜
日の朝刊でどんなに心励まされる「支局長からの手紙」を、滋賀の人と共に受け取ってきたか、
その一端をお伝えしたい。
支局長からの手紙 心を育てる絵本2005年(平成17年11月7日(月曜日)
「赤ちゃんが生まれた時、お母さんも生まれました。スタート時点は同じです」。赤ちゃんを
授かり、育てた体験に基づいた絵本「おかあさんがおかあさんになった日」。絵本作家、長野
ヒデ子さんは、創作の原点ともなった作品を語りました。自分の中からわき出したものを汲み
上げる。自分の皮膚感覚で確かめる。豊かな感性が作品にあふれていることが伝わってきまし
た。能登川町立図書館で先月28日に開かれた講演会でのことでした。
長野さんは瀬戸内海に面する愛媛県今治市に生まれました。白い砂浜と青い松林。暮らしのす
ぐそばに水辺の空間がありました。織田が浜です。私も現場に立ったことがありますが、瀬戸
内海ならではの穏や佇(たたず)まいのそれは美しい浜でした。
この浜の埋め立て計画が持ち上がり、「子どもたちに白い浜を残せ」と命がけで立ち上ったの
が「織田が浜を守る会」代表を務めた飯塚芳夫さんたちでした。飯塚さんは長野さんに最初に
絵を教えてくれた先生でした。
長野さんは講演会を始める時、宝物を見せてくれました。娘さんが小さいころ、現在能登川町
立図書館長を務める才津原哲弘さん(59)からもらった折り紙です。当時、転勤で福岡県で生
活した長野さんの家の近くには才津原さんの家がありました。才津原さんは仕事が休みの時は
自宅を家庭文庫にして開放していました。娘さんはその家庭文庫に通い、絵本に親しみました。
そこでもらった折り紙を何十年も大切にしてきたのです。
「文庫のおばさん」があこがれだったといいます。転勤で全国を回る生活。家庭文庫があれば、
子どもたちとすぐに仲良くなり、おかあさんとも友達になれたからです。本は人をつないでく
れると実感したそうです。本は手渡し方ひとつで生き、埋もれてしまうと。その人の言葉で読
んでもらって初めて本は命を吹き込まれることがよくわかったといいます。
長崎県の諫早湾の干拓事業を問うた絵本「海をかえして」を書きました。当初は社会的な問題
を扱いたくないという気持ちが強かったそうですが、自分の子どもたちが遊んだ諫早の海が死
んでいくのを見過ごすことができなかったといいます。現場に立ち、潮の満ち引きの自然のリ
ズムが何より大切だと実感します。それは人や動物たちも同じで、出産に立ち会う看護師さん
に教えてもらった言葉を紹介してくれました。「自然の流れに逆らわなかったらうまくいきま
す」
長野さん自身、知り合いに頼んで多くの出産に立ち会ってきました。その経験から確信したこ
とがあります。ソレハ赤ちゃんは自分の思いを持って自分の力で生まれてくるということです。
赤ちゃんは生まれながらに判断する力が備わっている。それを伝える手段を得るために学ぶの
だと。
ノンフィクション作家、柳田邦男さんの言葉を思いだしました。「大人になったからこそ絵本
を読んでほしい。子どものときとはまた違った深い味わいがある。絵本を読む時間を大切にし
たいと思います。 【大津支局長・塩田敏夫】
今ひとりの人のこと、扇元久栄さん
井上ひさしさんを能登川に招くにあたって、長野さんにはこの上ないお力を授かったと心に刻
んでいるが、このことでは今一人、かけがえなき人のことを思う。扇元久栄さんだ。扇元さん
に初めて電話をしたのは、1987年3月5日の深夜、写真家の漆原宏さんの紹介によるものだった。
当時扇本さんは仙台で、「仙台にもっと図書館をつくる会」の代表をされている方だった。
私が博多駅近くの財団法人の小さな図書室で働き始めて8,9年が経った頃で、人口111万2千人
(1986・昭和61年末)の大都市に市立図書館が1館しかないことの問題、市民の大半が図書館が
身近にないため、図書館を利用する(できる)市民が極めて少ない福岡市の在り方に、手を拱
いていては、ますます状況が悪くなっていると考えるようになっていた。市民として動き、行
動が必要ではないかと。仙台に電話をしてから日を経ず、扇元さんから、「つくる会」のすさ
まじい資料が送られてきた。
・「つくる会」は会を創めて年、文庫から始まったこと。
・「考える部会」「伝える部会」「広める部会」の3つの部会があること。
「つくる会」の活動の実に細やかで詳細な資料、福岡での状況を我がことのように受け止めて、
私自身が自らに問うていた問いに、柔らかに直截に応えてくださった言葉が記されていた。
一面識もない者に、その者の問いに答えて、心こめて爽やかな言葉を贈る、その時私は、扇本
さんが大好きな宮澤賢治の童話の中のせりふ、「こんなことは実に稀です」というかけがえの
ない時間を授かっていたのだった。扇元さんから深い気を吹き込まれて、私が歩みを共にする
人たちと、「福岡の図書館を考える会」を始めたのは、それから程なくのことだった。
後に幾度も、扇元さんとお会いし、手紙や電話でやり取りをする中で、扇元さんが、宮澤賢治
だけではなく、井上ひさしさんを大切な人と思われていることがわかってきた。
「私、井上さんのおっかけをしているのよ」、仙台文学館の館長をしていた井上さんの作文教
室だけではなく、井上さんの生誕の地、山形県川西町で”生活者の視点で自らの暮らしをもう
一度見つめなおそう”という井上さんの提唱で始まり、1988年から毎年1回のペースで開催さ
れた「遅筆堂文庫生活者大学校」(校長:井上ひさし、教頭:山下惣一)の講座に毎回参加さ
れていたのだと思う。図書館に関する講座では、竹内悊さんと一緒に登壇されているようだ。
(残念なことに、そのことを私は知らず、扇本さんからお話を聞き機会を逃してしまった。
このような次第で、扇元さんに能登川町での地方セミナー開催に向けての取り組みをお伝えす
ると、大変喜ばれるとともに、井上さんのご了解を得る上で、深いご助力をいただいたのだと
思う。
宮澤賢治学会イーハトーブセンター・地方セミナーのプログラムについて
たくさんの方たちのご助力を得て、中村哲さんと井上ひさしさんのご了解をいただいてから、
地方セミナーをどのような内容にするかで、まず、中村さん、そして井上さんのお話(それぞ
れ30分)、それからお2人の対談(80分)、そして、その後の会場の参加者との質疑(60分、
中村さんの各地での講演会では、質疑の時間がとりわけ面白いので、質疑の時間をできる限り
とりたいと考えて60分とした。)
講演が始まる前の30分は、①開会挨拶(町教育長田附弘子、宮澤賢治学会イーハトーブセンタ
ー荻原昌好 ②開会の辞イハトーブ童話『注文の多い料理店」序(宮澤賢治学会会員 扇元久栄
さん)③宮澤賢治・短歌四首 井上ひさし『なのだソング』 とりい しん平さん(驚くばかり
の時間だった。) ④群読『雨にも負けず』能登川町民と当セミナー参加者有志
そして
講演『医者、井戸を掘る その後』中村哲さん
講演『賢治と哲』 井上ひさしさん【ここでようやく「賢治と哲」にたどりついた!】
対談『辺境で診る 辺境から見る』中村哲さん・井上ひさしさん
参加者との対話・質疑
という次第だった。
扇元久栄さんには、開会の辞で、「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれい
にすきとおった風を食べ、桃いろのうつくしいあさの日光をのむことができます。またわたくしは、・・・」全文を詠んでいただいた。扇本さんは巻物に全文を書き記して、巻物を次々に引い
て巻紙を下にたらしながら、凛とした声で詠んでいかれた。本当は一言一句すべて、すっかり体
の中に入っていて、目にするまでもなかったのだけれども。扇元さんは全身で賢治さんを参加者
一人ひとりの目とこころに焼きつけ刻んでくださった。
30分のお話に『賢治と哲』と題を示してくださったのは井上ひさしさんだ。その演題を
お聞きして私は小躍りする思いだった。ここで「賢治と哲とひさし、と」につながる。
ただ会の進行はどうだったか。映像でたしかめていただきたい。【「図書館の風」No.49-2】
さいごに、どのような思いで地方セミナーを開催したか、「開催にあたって」と「対談」につ
いてのチラシの文章を記しておきたい。
宮澤賢治学会・地方セミナー開催にあたって 2004.5.1
2004年5月1日、琵琶湖の東岸、そほぼ中央に位置する能登川町で、宮澤賢治学会地方セミナーを
開催します。宮澤賢治が生まれた岩手県は、かつて日本の辺境とでも言うべき地でした。賢治さ
んはその辺境の地にイーハトーボという、いのち響きあう世界を見、「たしかにこの通りある世
界」として、私たちの前にさしだしています。この度の地方セミナーのテーマは「辺境で診る、
辺境から見るです。これは、実は今回の地方セミナーの講師のお一人である医師、中村哲さんの
最新の著書のタイトル名です。中村さんは、1984年パキスタン北西辺境州のペシャワールでアフ
ガン難民と接し、以後20年にわたって、パキスタン、アフガニスタンの地でライ(ハンセン病)
に苦しみ、貧困で診察をうけられない人々のために活動をおこなってきました。
20年に及ぶ中村哲さんの活動を支えてきたのは、その医療活動を支援する目的で結成された福岡
市に本部をもつペシャワール会の約12,000人の会員のボランティア活動です。中村哲さんとペシ
ャワール会の活動は、「東二病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西二ツカレタ母アレバ」
の「雨ニモマケズ」を彷彿とさせるものがありますが、中村哲さんは、こうした活動の中で、ア
フガンの地で賢治の本を読み、昨年、京都で行われた講演会で、かの地で賢治の作品を読むと、日
本の今のありいうが、その作品を通してよく見えるという趣旨のことを述べられていました。
今回の今一人の講師である井上ひさしさんと宮澤賢治との深い関りについては、井上さんのエッセ
イや戯曲「イーハトーボの劇列車」などの作品で、多くの人に知られています。
井上さんが小学校6年生の時に、「生まれてはじめて、雑誌ではなく単行本を、それも自分自身の
判断で、しかも貯めておいた小遣いで買った」のが、井上さんの蔵書第1号である「どんぐりと山
猫」であったということ。この本との出会いを、井上さんは「私の個人史における生涯十大ニュー
スのひとつ」と言われていますが、井上さんの生き方とその著作の根底には、いつも賢治の世界と
響きあうものがあるように思われます。
また、「国をあてにしない生き方から一歩先へ、モデルのない時代だからこそ、新しいモデルをわ
たしたちでつくっていく。個人から町へ、地域から国づくり」を考える「生活者大学校」の開校、
その長年にわたる活動は、まさに、「地域(辺境)で見る 地域(辺境)から見る」活動そのもの
と見えます。
この度の地方セミナーでは、「辺境で診る 辺境から見る」ことを、その生き方の根っこにおかれ
ている中村さんと井上さんをお迎えして、「辺境で診る 辺境から」とは何かを、じっくりお聞き
し、参加されたお一人ひとりが、「ほんとうの生き方」を、自ら考える場となればと考えています。
地方セミナー開催という天空からの贈り物とも思える時を与えていただいた能登川からは、この機
会あらためて出会えた賢治さんとの出会いの喜びの小さな声をお伝えできればと願っています。
さいごになりましたが、能登川町での地方せみなーの開催にあたりましては町の内外の実に多くの
方々のご助力をいただきました。心からお礼申し上げるものです。ーーー
”ほんとうの生き方”
をよりよく考える言葉が紡ぎだされる対談
このたびの中村哲さんと井上ひさしさんの対談を企画いたしましたのは、井上さんが中村さんの
活動のはやくからの支援者であり、よき理解者であるからです。井上さんはナk村さんの活動に
心からの感銘を受け、紹介する話を、すでに井上さんゆかりの地、山形県置賜農業高校でされて
います。日本の農業、戦争と平和についても深い関心を持ち、積極的に発言してこられた井上さ
んと、内戦が続くなかで20年間、闘う平和主義を貫いてこられた中村さんの”賢治”を切り口と
した対談が実現すれば、宮澤賢治の世界の広く深いひろがりが感得される対談になるとともに日
本で今を生きる私たちの生を支える労働について、平和について、又一人ひとり”ほんとうのいきっ方”をよりよく考える言葉が紡ぎだされる対談になるものと確信いたします。
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