2022年12月5日月曜日

中村秋子さん、「父 中村哲のこと」 No.106

毎日新聞の12月4日の朝刊の2面の「みんなの広場 日曜版」に、大きな横見出しで、 《中村哲医師、共に在り》と題された紙面があり、リードの文章は「12月4日は3年前、アフガ二スタンで医療・農業支援活動中、凶弾に倒れた中村哲医師の命日です。35年にわたる活動や言葉に励まされた人々の投稿を紹介します。」と書かれ、5人の投稿者の文章が掲載されていた。 ①『自分に厳しい「優しさ」(ペシャワール会会員59・大阪府)』、②『先生への「ありがとう」(小学6年11・大阪府)』、③『学び多い珠玉の言葉(元団体職員72・福岡県)』、④『平和の原点 私は伝える(元会社員89・福岡県)』、⑤『家族がつづった父の顔(無職69・大阪府)』 一人ひとりそれぞれの心に刻まれた中村さんの生き方や言葉に心動かされながら一つずつ読んでいて、最期の⑤の投稿をみて驚いた。 投稿した女性の書き出しはこうだ。「病気療養中の友人に何かできることはないかと考え、小冊子「抜粋(ばっすい)のつづり」(クマヒラ・ホールディングス発行)を送ってもらうことを思いつきました。今年初めの「その八十一」には「父 中村哲のこと」と題した長女秋子さんのエッセイが載っていました。」 驚いたのは「抜粋のつづり その八十一」のことだ。縦17.5、横12.5センチの小さな冊子を私も持っている。「抜粋のつづり」を教えてくださったのは、知人で近所にお住いの波多江一正さんだ。波多江さんは、二丈町議、糸島市議会議員の時に議会で20数回続けて、図書館についての一般質問を行い、糸島の図書館づくりでとても大きな働きをされた方だ。その波多江さんから、面白い冊子があり、申し込めば無料で送られてくると聞いて、今年の初めから読み始めていたのだ「その八十一」の「はしがき」によれば、「抜粋のつづり」の創刊は何と昭和6年(1931年)満州事変が始まった年だ。91年前のこと。クマヒラ・ホールディングスの創業者熊平源蔵氏(明治14年・1881年生、昭和53年・1978年没・97歳)が「社会に感謝・報恩の思いから昭和六年に創刊し、いらい戦中戦後の混乱期の三年をのぞき、一年一冊、ご愛読の皆様の激励の声を背に号を重ねて」きたとあり、「今回も最近一年間の新聞、雑誌、書籍などから、心に響く珠玉のエッセー、コラム三十七篇を抜粋し、小冊子にまとめ」たと。「玉文の転載をご快諾くださいました各界の諸先生、新聞・出版社のご厚情に厚くお礼を申し上げます。」と、熊平源蔵氏の孫にあたる熊平雅人(株式会社クマヒラ、株式会社熊平製作所)会長の挨拶が記されている。【令和四年一月二十九日(創業百二十四周年記念日に当たり)】 「はしがき」の前段には、「おかげさまで弊社創業記念日の本日、「抜粋のつづり その八十一」を四十五万部発行し、百カ国の日本大使館や総領事館、諸官庁、金融機関、上場企業、学校、病院図書館、ロータリークラブなど全国八万九千カ所の団体・個人に寄贈いたしました。」とあり、その発行点数と寄贈先、その方法に驚かされた。 表紙の裏の頁には、昭和六年霜月に書かれた熊平源蔵氏の〈「創刊のことば」から〉が掲載されている。 「日頃の御好意に對して感謝の意を致したいと存じてをりますので、その一端として、このパンフレットを発行いたしました。 積極的消費論と學校教育の普及と改善、又宗教に現世の浄土化思想の必要は私の持論とする所で御座いますが、私の陳弁よりも、近頃讀みましたものの内で、こうした方面に於ける諸名士の御意見を紹介してみたいと存じまして編纂いたしました。」 言葉(を発した人、書き記された言葉)に心打たれ、その言葉を引用して、伝えようとする営み、その息の長い90年をこえる営みが一つの企業で行われてきたこと、行われ続けていることに驚く。「その八十一」の最期の頁、p128の奥付には次のように記されている。 「令和四年一月二十九日 発行(非売品) 発行所 クマヒラ・ホールディングス / 発行人 東京都中央区日本橋本町一・十・三 熊平雅人 / 編集人 広島市南区宇品東二・一・四ニ 宮脇保博 / お問い合わせ 電話(0八二)二五一・二一一一(代表)/ 印刷所 広島市西区商工センター七・五・五二 株式会社ユニバーサルポスト (印刷部数 450,000部)、また次頁の裏表紙の裏には「全国の(株)クマヒラでも贈呈いたします」(※発送のために取得しました個人情報はそれ以外の目的では使用しません)と記して、本社及び全国の支社、営業所54カ所の住所、電話番号が記されている。 中村秋子さんの文章を私はそれが雑誌に掲載された当時目にしていたが、ここであらためて「抜粋のつづり その八十一」からその文章をたどって、秋子さんがこれを書き始められた時に思いをいたしたい。 父 中村哲のこと 中村秋子 父がアフガ二スタンで凶弾に倒れてから一年以上が経ちました。いつも危険を承知で行くのを送り出していたからでしょうか、事件を知ったときは「起きてほしくはなかったけど、お疲れさまでした」と冷静に受け止めました。 父をアフガニスタンまで迎えに行く機中で、父のことや一〇歳まで住んでいたパキスタン北西部ペシャワールのことを思い出していました。騒がしくて埃っぽく、全体的に黄土色のイメージでしたが、いつも晴天で活気がある街でした。自宅は父の勤務していた病院の敷地内にあったので、家とは違う真剣な表情で仕事をしている父を垣間見ることがありました。子供ながらに大変そうだなと思っていたのでしょう、仕事で疲れうたた寝をしている父を見ると「このまま目を覚まさないのでは」と不安になり、寝息を確かめたこともありました。 今回の事件では、ドライバーと護衛の方五名が亡くなりましたが、皆さん私よりも若く、小さなお子様がいると聞いていたので、「幼くして父を亡くすことは大人の私とはまた違う悲しみがあるはず」と、子供の頃のあの不安な気持ちが重なり、悲しみが増すばかりでした。 到着後、大統領府でガニ大統領から弔意をいただき、父から事業の説明を受けたこと、国民が今回の事件を非常に悲しんでいるということを話してくださいました。ルーラ大統領夫人や大臣やその奥様もおられました。後で聞いたことですが、公的な立場にない女性が公の場所に出るのは極めて異例なことで、父がいかにアフガニスタンに受け入れられていたかを実感し、そのお心遣い慰められました。私は大統領に感謝と、五名の方へのお悔やみを申し上げました。今回の訪問ではアフガニスタン国民の皆様の関心の高さに驚かされましたが、それだけアフガニスタンは困難な状況にあり、父の事業が必要とされていたのでしょう。 帰国前のカブール空港に父が働いていたナンガラハル州各地から長老の方々が駆けつけて来られました。「ありがとう」「申し訳ない」と必死の思いでおっしゃるご様子に、もっとお話しできる時間があればと残念でした。みなさまの父への思い、ペシャワールを思い出させる懐かしい風景が名残惜しく、いつの日か再訪し、よみがえった緑の大地を見たいとの思いを強くしました。 家にいるときの父は、仕事でパソコンに向かっているか、庭で草木の手入れを一日中していました。最近は事業に関連してか果樹への興味が高かったようで、三〇本ほどの果樹が植えられています。素朴で気取らずおおらかな性格で、くだらない冗談を言い、スーツのまま庭仕事をして母に注意されたり、何度も禁煙に失敗したり・・・・・・。私との親子喧嘩も一度や二度ではありません。子供や孫が集まって賑やかにしているのを傍らから楽しそうに見ている、ごく普通の父親でした。ただ礼儀には厳しく、「挨拶をしなかったら敵とみなされる」などと言うときには、「ここはどこなの?」と言い返したくなりました。 またシンプルな人だったので、物事の本質を見極め、先を見通す力にも長けていたと思います。「気立て良くいなさい」「頑張ればなんとかなるよ」「できることはできるし、できんことはできんたい」と淡々としているのですが、父が言うとどこか希望を感じさせました。何でも白黒つけがちな私に「いろんな立場や状況がある。相手がどんな思いなのか自分の枠に当てはめずによく考えることが大切で、何もかもを明らかにしたら良いというものではない」と諭すなど、本当に思いやりにあふれた人でした。 またよく「三度のご飯が食べられること、家族が一緒にいられることが人間の幸せ」と言っており、それをアフガ二スタンで実現させるために事業に力を注いでいたと思います。確かに父は常人離れした行動力や、人を惹きつける力がありましたが、その根本にあるのは人間に共通する素朴な願いであり、そういう意味では決して特別な人ではなかったのです。だからこそ、アフガニスタンの苦難に寄りそうことができ、多くの人から共感をいただけるのではないでしょうか。 今日まで多くの人に支えてもらったことには感謝しかありません。父はペシャワール会(父の支援団体)の皆さんをはじめとする、多くの方との縁(えにし)を残してくれました。微力な私ですが、ボランティアの一員として会に携わっていけることは幸せなことです。これからも事業が続いていくことが何よりの願いです。 (なかむら あきこ=ペシャワール会会員・文藝春秋 3年4月号)

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