2025年3月30日日曜日

GENzai(ギャラリー)のことから No.135

GENzai(ギャラリー/ショップ/喫茶)は東近江市五個荘にあり、3月は1日(土)から18日(火)まで 「坂口恭平展 僕の好きなもの」をやっていた。前号(No.135 )でその紹介をさせていただいた。 なぜ滋賀県の街のギャラリーのことを糸島に住む私がお伝えしたいと思ったのか、まずそのことから。 中山さんご夫妻のギャラリーGENzaiとのご縁は、随分以前にさかのぼる。夫人が大学生だったころ、 能登川町立図書館で、当時大学4年生だった夫人の写真展を行った。その時のことを当時、中日新聞の 近江八幡支局にいた記者の三田村さんが何ともうれしい紹介の記事にしてくれている。 ”能登川の大学生・・・・が写真展” 2002年(平成14年)7月1日 中日新聞 ――一つ屋根の下に暮らした祖父の最後の日々をとらえた―――― ”祖父の人生最終章 レンズで 叙情的に ”
心に刻まれる写真展だった。記事にあるように週末にはスライドが上映されたが、その時の彼女の清しい 語りくちも記憶に刻まれている。 1月の末から2月にかけて、中山さんから久しぶりのご連絡をメールで頂き、その後のお便りでギャラリー での展示のチラシなどを送って頂いた。驚いたのは私が能登川で本当に懐かしい時間を幾度となくともに してきた田中武さんの急逝の知らせだった。 しかも田中さんの板画の作品展をGENzaiで企画し、昨秋からその準備のための打ち合わせを田中さんと行 っていたさなかのことだったとお聞きして言葉を失った。 田中武さんのこと お便りとともに作品展の案内
そのような経過、事情であったが、田中さんのご家族の協力のもと、予定通り開催することになりましたと、 ”祈りの版画 田中武展 ー想い、刷り、摺り、創るーそののち 2025.2.14(金武)―2.24(月) 作品展の名前と開催日時などを教えてくださり、中山夫妻の心のこもった作品展案内のチラシが同封されて いた。あわせて坂口恭平展のチラシも。田中武さんの作品展に行くことはできなかったが、追悼の思いを こめて田中さんから手渡されていたものを記しておきたい。 作品展の案内から
悼詞 ☆田中さんはよく図書館を利用され、図書館での講演会などの催しにもよく参加された。能登川の図書館は1997年(平成7年)11月に開館したのだが、いつのことだったか田中さんからある本を紹介され、個人でも購入していた。宮澤賢治の初期の動物童話集だった。出版されたのは1995年3月10日、『貝の火』(宮澤清六編 昭和22年12月の復刻版)、『二十六夜(宮澤清六編 昭和23年4月の復刻版)の2冊だった。
佐伯義郎さんのこと なぜこの本だったか。それはこの本の挿画・挿絵が佐伯義郎さん1918―1979)によるものだったからだ。田中さんから詳しくお聞きすることはなかったのだが、本には佐伯義郎さんの略歴を記した、 佐伯義郎美術館設立委員会の「ごあいさつ」の一文が一枚、折り込まれていた。その設立委員会の事務所が2か所、 記されていて京都事務所と滋賀事務所(滋賀県愛知郡愛知町東円堂)とあった。田中さんもその活動に参加されていたか、あるいは田中さんの知人の方が滋賀事務所の活動をされていたのだったか。 「ごあいさつ」の一文は短い文章の中で佐伯義郎氏が「画家として、又詩人として実に多様な仕事を残し」「出版関係では、岩波広辞苑のカットや初期宮澤賢治童話集の挿絵等に、氏の力量と人柄がよく表れています。童話集での茫洋とした柔らかな筆使いと、素朴で味わい深い色彩は、無私、無心を感じさせ、読者をごく自然に物語世界へと誘いながらイメージを増幅させ得た、すぐれた挿絵となっています」と、その人と仕事、その生き方を鮮やかに伝えている。 略歴では1979年11月4日、佐伯氏が京都で亡くなられたあと、堺町画廊で佐伯義郎展が1987年に、また1989年には「佐伯義郎没後10年記念展」が開かれたこと、その前年の1988年には滋賀県立八日市文化芸術会館で「佐伯義郎の詩的世界」が開催されたことなどが記されている。 ここで、突然、つい最近のことにかえるのだが、私は数年前から福岡市のある市民センターの会議室で月に1度の朗読の会(当初はそれぞれが各自、持ち寄った本の一節を読む会)に出かけている。メンバーは7名、私が1976年(昭和51年)7月頃から開館して間もない福岡市民図書館で嘱託職員とし3年弱いた時に、一緒に働いていた人たちで大半が嘱託だった人たちだ(50年来の友人)。そこで前々回から 宮澤賢治の本を朗読することになり、「どんぐりと山猫」の前回は、前記の復刻版『貝の火』を持って行った。 その際、「どんぐりと山猫」を読むことの面白さはもとより、標題の頁に描かれた絵と本文の中ほどにある2つの絵に目を惹かれた。『貝の火』には、「まへがき」(『注文の多い料理店』序・大正十二年十二月二十日)と7編の童話があり、それぞれの童話の標題紙の頁と童話の中ほどに佐伯さんの挿絵が1点あるのだが、「どんぐりと山猫」だけは童話中に2点の挿絵がある。 標題紙の絵は、一郎が大へんな急坂をのぼって行き着いた、立派なオリーブ色いろの榧(かや)の木のもりでかこまれた美しい黄金(きん)いろの草地だと思われ、山猫を真ん中にして3人がならんで立ってこちらを向いている。 本文の中の絵の一枚は、笛ふきの瀧のそばの木立の中を歩く一郎、学帽をかぶり半ズボンだ。もう一枚は、走る馬車の後に乗ったやまねこ、両耳をピンとたて大きな鋭い目で進行方向をみつめている。馬車別当は右手にむちを高く振りあげている。 朗読の会が終わってから、あらためて7つの童話を最初のから読み始める。一番目は「猫の事務所・・・ある小さな官衙(かんが)に関する幻想・・・」。標題の頁の挿絵には、事務長の黒猫のうしろの窓からいかめしい獅子が大きな金いろのあたまをのぞかせている。猫の第六事務所のなかでは5人の猫が前を向いたりうしろを向いたり横を向いたりして並んで立っている。右端で両腕を泣いている目に当てているのは四番書記の竃(かま)猫だ。まだ獅子には気づかない猫たちの真ん中で、獅子の方を向いているのが事務長の黒猫、それでは竃猫を泣かせた一番書記の白猫、二番書記の虎猫、三番書記の三毛猫はどれだろう。 読みすすめていくと、猫の歴史と地理をしらべる猫の事務所の扉をこつこつ叩いてやってきたぜいたく猫の質問に4人の書記の猫が次々に答えていく。一番書記、二番書記、三番書記についで四番書記が答えはじめる頁をめくって、思わずアッと驚いた。その半頁に描かれた挿絵はーーー「大きな事務所のまん中に、事務長の黒猫が、 まつ赤な羅紗(らしゃ)をかけた卓を控えてどつかり腰かけ、その右側に一番の白猫と三番の三毛猫、左側に二番の虎猫と四番のかま猫が、めいめい小さなテーブルを前にしてきちんと椅子にかけてゐました。ーーーを描いたものだった。私が驚いたのは、なにか見覚えのある絵だと思われたからだ。 その後、何日かかけて、整理など無縁の資料の山の中から一枚のチラシがでてきた。
チラシのタイトルは 雨ニモマケズ風ニモマケズ 第2回 宮澤賢治朗読リレー ●2005年5月14日(土)・午後2時ヨリ   能登川図書館野外ニテ〈雨天ノ時ハ会議室ニテ〉 朗読の出演者募集 🦉童話の朗読と鳥井新平さんの「短歌をうたう」があります。 ※佐伯義郎・画と記されたチラシの絵は、本に描かれた絵の一部が省略されている。(左側の壁面や書記のテーブルの手前の門扉など) ああ、これだったんだ!復刻版のこの本からだったのか。佐伯さんのお名前を記憶にとどめず、この絵だけが私のなかに刻まれていた。 このチラシは手書きで書かれている。宮澤賢治朗読リレーの提案もこのチラシ作りも、新平さんの(賢治の)「短歌をうたう」の提案もぜんぶ田中武さんの提安、作成だったと今にして思う。(私はそのことをすっかり忘れていたのだが) 〈疑問;チラシには白猫が座った椅子のうしろに、「茨木小学校」とあるが、これはなんだろう?ナンデスカ田中さん?〉 ・第2回ということに、そして日付が2005年5月14日ということに驚かされた。 私は”朗読リレー”については1回だけだと思っていた。それも実際にそれが行われたのは、能登川で「宮澤賢治学会の地方セミナー」(2004年5月1日)を開催した前のことだと。それを2回やっていたのだ。しかも2回目は地方セミナーを開催して1年後のことだった。私自身、図書館の玄関前の広場での朗読リレーに参加したことを憶えているのだが、あれは第1回目の朗読リレーだったのか。そうだとすると、2004年5月1日に能登川で開催した宮澤賢治学会地方セミナーの前に第1回の朗読リレーを開き、その参加者の大半が、地方セミナーの会場で行った”群読『雨にも負けず』”にでてくださったのだと思う。「辺境で診る、辺境から見る」をテーマに中村哲さん、井上ひさしのお話、対談を核に、4時間に及ぶプログラムの最後に、「参加者との対話・質疑」が行われたが、司会者から「最期の質問者です」と言われ、会場で手をあげられたのが、田中武さんだった。能登川という町の紹介から始まる田中さんの問いかけ、そして中村さんの応答の様子、セミナー全体の夢のような時空が、ある方のお力で記録に残され、今も見ることができます。【「図書館の風」No.49-(2)/ www.kazedayori.jp No.49-(2)】田中さんの声、お姿、そして この度は中村哲さんから「お聞きすることは全て聞きました」と言われた井上ひさしさんとのやりとりも見ていただければと思います。「開会の辞」で「イーハトーブ童話『注文の多い料理店』序」を朗読して下さった仙台から参加された扇元久栄さんの声にも耳をすましていただければと思います。 また、田中武さんが作った「朗読リレーのちらし」のなかにある”鳥井新平さんの「短歌をうたう」”を、”井上ひさし『なのだソング』”とともに見ることもできます。
☆ 田中さんから驚かされたことがいくつも思いうかぶ。 ある時、毎日新聞の記者の元村有希子さんから図書館に電話があった。多分、東京からだった。取材したいとのお話だった。その時は私はまだ元村記者について、しっかり認識していなかった。しかし田中さんは元村さんの書く記事に注目されていたのだと思う。「どうして取材を」とお聞きしたのだったか、「田中さんから能登川の図書館を取材してほしいと連絡が」とのことだった。電話でか、あるいは手紙でか、そのような思いもよらない田中さんの行動に驚いたが、それに応えて動く元村さんの振舞いにも驚いた。取材は図書館でと考えていたが、日程の調整から、京都で前年の7月に亡くなった鶴見和子さんを偲ぶ会に私が京都に行くことにしていた日に、その会が終わったあと、その会場で取材をということになった。 毎日新聞の「発信箱」という欄に「いのち響く図書館」(元村有希子・科学環境部 )という記事が載ったのは2007年(平成19年)6月7日(木)、 能登川図書館の前庭で「第2回宮澤賢治朗読リレー」が行われて2年後のことだった。 田中さんは私にとって元村有希子という記者に対して目を啓いてくれた人だった。それは一人の新聞記者、個人に向きあう、あるいはその声、記事に耳をすますということでもある。 〈元村有希子さんの記事〉
☆その頃のことだったか、鶴見和子さんといえば、田中さんの南方熊楠の作品を、南方熊楠についての著書のある鶴見和子さんに贈られ、その作品が鶴見さんのお部屋に飾ってあるとお聞きしたことがある。田中さんは会いたいと思う人には、会いに行く人だった。ほんとうに鶴見和子さんの所に会いに行かれたのだ。 いつだったか、田中さんの作品展が東近江のあるお寺(だったと思う)であった時出かけていったことがある。田中さんの作品の前にたつと 、朗らかで温かな光のようなものにつつまれるようだった。その時、その底に静かな悲しみのようなものを感じていたように思う。 鶴見和子さんのお部屋の壁にある南方熊楠はどんなものか、時折、思いをめぐらせている。 ☆彡 田中さんへの報告 昨年の冬、田中さんが力をつくして取りかかっておられた作品展が、ご家族の協力のもと、GENzaiの中山夫妻のお力で実現し、今年の2月14日(金)から2月24日(月)までギャラリーGENzaiで開かれました。残念なことに私は駆けつけることができなかったのですが、私の若き友が、なんとGENzaiを2回にわたって訪ね、”田中武展”のこと、会場の佇まいのことを伝えてくれています。そして止揚学園を訪ね、なんとなんと、奥様にお会いして、そのお話をきくこともできました。さらに田中さんの作品がある近江八幡のカフェ茶楽も訪ねていて、そこでも私にも連なる不思議な出会いをされています。〈あざみ寮・もみじ寮、ゆかりの方との出会い!〉そして彼の歩みは止まることがありません。 彼は糸島に移り住んで一年ですが、私にとって思いも寄らぬ出会いを授かったと感じる人です。このようなことがあるのですね。彼には田中さんと共通点があることに、ここまで記して思いあたりました。それは彼も、会いたい人があれば、ほんとうに会いにいく人だということです。そのような人と出会えたのです。彼の歩みを通して田中さんと再びお会いしていると感じています。〈つながる出会い、広がる出会い、深まる出会いの人〉 さいごに、田中さんにお許しいただきたいことがあります。先に、田中さんの作品の前に立った時に、私がつつまれた光のようなものについて触れましたが、その一端なりをお伝えすべく、田中さんが昨年、送ってくださった賀状(2024の新年の賀状)をここに刻むことです。毎年毎年、新しい年を迎えるその日に、このような朗らかで明るい光に、私たちがつつまれていたことへの感謝の思いをこめて。(2025.4.17記)

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